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雲のように飄々と…月のように夜道を照らし…
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私の育った家庭は、極々普通の中流家庭でございます。
中流と言う表現はあまり好きではありません。何不自由なく、そして愛情をたくさん注がれ育てていただきました。そういう意味では、私にとっては上流・・・、いや特上家庭であったと思っております。

私の父は、昭和11年生まれ東京出身であります。勉学に励んだ人で東京の立派な大学を出ております。当時は東京教育大学、今の筑波(つくば)大学の前身だそうです。父が就職をした時代には、一流の大学として扱われておりました。何の職に就くにしてもエリートコースを約束されたようなもんであります。学士様という奴ですね。

父方の祖父は戦時中、軍需工場を経営していたそうで、東京空襲が始まるまではかなり金回りも良く、成金状態でブイブイ言わしていたようであります。しかし、戦後は没落してしまい随分と貧乏をしたそうです。戦後は祖母が、小さな焼鳥屋を営み大変な苦労をしながら家計を支えました。

父は、当時かなりの難関であった奨学金の試験をパスし、自力で大学に進学いたしました。大学進学後2年間勉強し、そして1年間休学します。休学中の1年間は、弟の高校進学の金を作るために働いたのだそうです。その後、残りの2年間また勉強をし、見事に卒業いたしました。なかなかの苦労人、立派な人であります。

父が、大学を卒業したのは昭和30年代前半、日本が敗戦から立ち上がろうとしていたエネルギッシュな時代であります。大きな志を抱いた学士様は、未来に大きく関わる仕事をしようと考えました。焼け野原は建築ラッシュ、当時は木造建築が主流でした。しかし、木造の技術もまだまだ未熟、製材や合板の技術も全くと言って良いほど無かったそうです。

彼は、木材という分野を選択いたしました。今で言う、フローリングや集成材、化粧ベニヤや木目調化粧板などの技術開発や製造をする仕事です。当時は日本のあちこちで、この分野の会社が急成長をしておりました。近年のIT産業のようなもので、大きな可能性のある業界。時代の波に乗った訳であります。

広大な原木の宝庫『ブラジル』、父は当初本気でブラジルに行こうとしていたそうなのです。「お願いだから、せめて日本国内で就職してくれ。」と祖母に泣きつかれ、父はブラジル行きを諦め、国内の原木の産地『北海道』に渡ってまいりました。彼がブラジル行きを強行していたならば、私は生まれておりませんでした。父の選択に感謝しております(笑)。

私は、東京の祖父母には幼少の頃に一度しか会った事が無く、残念ながら記憶が全くございません。これらの話は父本人や母、今も健在の父の姉弟達から聞いた話でございます。敗戦後の混沌とした時代とは言え、立派な人だと素直に尊敬しております。

そうこうして父は、北海道の大きな木材会社に『会社の将来を背負って立つ人間』として華々しく迎えられました。異常なまでの歓迎を受け、全てが特別な待遇だったようであります。世にはまだ大学出なんて少ない時代、努力して勉強した甲斐があったというものです。努力が報われるというのは良い時代の証拠であります。

父に限らず、この時代に大学を出た方々の多くは、志というものを持っていた気がいたします。そこら辺を勘違いして、「良い大学を出れば将来安泰」なんて中途半端な眼差しで見ていた連中が、昨今の間違った学歴社会を生んだのだと考えております。人としての志が低ければ、どんなに良い大学を出た者でもクズであります。このくだらない勘違いが、現代の殺伐とした社会の元凶だと思うのです。

話が横道に反れてしまいました・・・(汗)。
父の就職した会社は、今考えるととんでもない規模の大きさでした。私が生まれる前の会社の運動会の写真を見て、とても驚きました。なんと千人以上の社員とその家族が参加する『大運動会』であります。立派な大会社、良い所に勤めていたようです。当時は娯楽が少なかった所為か、はたまた人と人の結びつきが強かった所為か、運動会の写真は誰もがとても楽しそうに見えます。どの家族も心からの笑顔であります。本当に全員が楽しそう・・・。

良き時代のワンシーン、そんな写真でした。サッチモの『ワンダフル・ワールド』のメロディーが耳の奥に流れてきそうです。昔はある程度の規模の会社では、必ず運動会や色々とレクリエーション的なイベントがあったようです。今でもこんな、社員や家族同士の絆を深めるイベントを催す会社は存在するのでしょうか。もし在るのであれば、立派な会社だと思います。過去に置き忘れてきた人間同士の本当の笑顔を、父の写真は教えてくれたような気がしました。

今になって考えると、その頃が木材業界の黄金期だったのであります。コンクリート建築の技術向上、高度経済成長、オイルショックを経て、木材業界は急激に衰退していく事になります。私が幼稚園児の頃には、大運動会も既にありませんでした。

私は、父が35歳の時に生まれた子供。小学校に上がる頃には、父は40を過ぎておりました。父はかなりのポジションにいたそうですが、一大決心の後に転身を図ります。自ら家具販売の会社を興したのであります。木材関連で多少のコネを持っていたようです。

口下手な男でしたので、随分と思い切った行動に出たものであります(汗)。それでも、市の中心部に在る当時では大きなデパートの『長崎屋』に商品を納入していたと言うのですから、大したもんだと思います。なんとか上手くやっていた様なのですが、それも長くは続きませんでした。

父の会社は、順調でした。朝早くにバスで出勤し、夜も遅くまで働いておりました。でも、おそらくやり甲斐があったのでしょう。表情はいつも明るかったのを覚えております。ですが、私が小学校4年生の時に、父の会社は倒産します。以前いた木材会社の部下の連帯保証人になっていたのです。その額、ざっと1500万!

努力と苦労はしていたものの、これまで人に騙された事が無く、人を疑う事など知らない人でした。母にも相談無く、安易に保証人を引き受けてしまったようであります。突然、実家に事務所用の机やロッカーなどがワンサカ運ばれてきました。きっと、事務所を撤退した時の荷物だったのでしょう。私は、大人用の大きな事務椅子に乗ってはしゃいでおりました。

小学生の私は、この頃の父の仕事やここら辺の事情をよく知りませんでした。話の全容を知ったのは私が大人になってからの事です。4歳上の兄は把握していたかも知れませんが・・・。この時期、ちょいちょい夫婦喧嘩がありました。私達兄弟の前ではやりませんでしたが、子供ながらにこっそり様子をうかがっていると、泣いている母に父が何かを怒鳴っている・・・そんな感じだったと思います。

そんな苦境の中でも両親は、私達に不自由をさせませんでした。母方の祖父母の多大な協力も当然あったように思います。この頃から、両親共働きになりました。二人とも実に良く働きました。父は以前の会社の重役さんの計らいで、請け負いで内装工事の仕事を始めました。請け負いですから、やればやった分だけ稼ぐ事ができます。母はパートで近所の表具屋さんで働きました。私達兄弟の面倒は祖父母が看てくれました。

大人になって知った事とは言え、あの苦しい時に「アディダスのジャージを買ってくれ!」だの「サッカー少年団に入りたい!」だのと馬鹿なわがままばかり言ってしまいました。本当に馬鹿なクソガキだった自分を今でも恨めしく思います。そんな糞馬鹿のわがままを、両親は叶えてくれました・・・。

そんな家計の状況や暖かい親心も解からずに、中学校に進学した私は不良の道に進んで行きます。連日の学校や警察からの呼び出し・・・、入学からたったの1年で父の髪は真っ白になってしまいました。人に騙され大きな借金を背負わされ、自分のやりたい事など何一つせずに家族のために黙々と働き、それなのに息子は訳もわからずにグレていく・・・。

あの頃の父はどんな気持ちだったのでしょう・・・。どれほど悲しかったのでしょう・・・。それを想うと、己の馬鹿さ加減に涙が止まらなくなります。

中学時代に、一度だけ本気でブン殴られた事がございます。家出してフラフラと煙草を吸って歩いているところを警察に捕まった時です。警察署まで引取りに来てくれて、家に帰ってから思い切りヤラれました(汗)。人なんて殴った事が無い人だったので、手加減ちゅうもんを知らず、エラい目に遭いました。

私がいくらケンカ坊主だと言っても、なんせ小学校から上がったばかりのチビですからね。敵う訳がありません(汗)。あの時も、父は涙を流しながら私を殴っておりました・・・。この頃、父は涙もろくなっていて、よく風呂で一人すすり泣いていたそうです。これも大人になってから、母に聞いた話であります。

折りしもTVでは『積み木くずし』などの不良もののドラマが流行していた時期です。きっと悲しい気持ちで観ていた事でしょう。

この後も、中学時代には些細なトラブルが続きました。酒・タバコ・シンナー、街での喧嘩やカツアゲ、何度も補導こそされましたが大事にもならず、鑑別所や少年院に入る事はございませんでした。両親や祖父母には気の休まる暇など無かったと思います。まぁ、祖父だけはちょっと違う感覚だったのですが、それはまた別な機会に・・・。

ロクでもない事を繰り返してはおりましたが、何とか高校には進学する事ができました。これは父の希望でもあったので、進学して良かったと思っております。ただ、入学当初はかなりキツかったですね。そこそこ真面目な学校に受かってしまったので、悪い奴が居ないのです。一人だけ毛色が違うようで、いつも浮いておりました。

中学の頃に通り一遍やる事はやってしまった所為なのか、この頃の私は何故か落ち着いておりました。タバコを吸いながら歩いている同級生を見ると、「もう中学生じゃないんだから格好悪いぞ。」なんて変に大人びた発言をしておりました。まぁ、ガキの勘違いって奴ですね(照)。

自転車やバイクを盗んでは金に換えたり、街に出てカツアゲなども一切しなくなりました。それらの行為が、急に格好悪く思えてしまったのです。そんな事はガキのする事だよ・・・的な感覚でした(笑)。悪い事は早い内に一通りやってしまった方が良いのかもしれませんね。

そんな訳で高校に入ってからは、バイトをするようになりました。タバコもやめ、警察沙汰も殆どなくなりました。違う区にある空手の道場にも通うようになり、外で喧嘩をする事もありません。態度の悪さと、ガラの悪さは変わりませんでしたが・・・。父にとっては平穏な良い時期だった事でしょう。

高校半ばに繁華街でバイトをするようになりました。夕方から朝方まで仕事をして、学校では殆ど寝ておりました。父は呆れておりましたが、面倒事を起こさなくなった私に何かを言う事はありませんでした。高校卒業と同時に家を出るまで、この平穏な日々は続いたのであります。

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