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雲のように飄々と…月のように夜道を照らし…
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卒業後は繁華街に住み着き、ウェイターなどをやりながらも好き勝手な生活をしておりました。好き勝手と言いましても所詮はガキ、酒・女・喧嘩、こればっかりです(笑)。まだ兄貴分と会う前の話であります。
父は、何度か私の働いている店に呑みに来てくれました。真面目に、がむしゃらに働き続け、この頃には借金は大体片付いていたようです。昔父が良く行っていたというスナックにも、何軒か連れて行かれました。そこのママさんと話をする父を見て、こんな顔をして笑うんだなぁと思ったものです。
酔ってこんなに笑っている父を見た事がありませんでした。いや、見た事が無かった訳ではありません。私がチビの頃、写真の中の父はいつも良い笑顔だった筈です。私が、迷惑ばかりかけていた所為であります。私が、父から笑顔を奪っていたのです。気付いたところで、時間を戻せる訳でもありません・・・。
その後も、親不孝を重ねる事を承知の上で、今の業界に身を投じる事になります。家族に具体的な内容や、どこの組に所属しているかなんて話はした事がありませんが・・・。父からも聞かれた事はありません。ちゃんと元気にやっていて、飯もちゃんと食えているようだから、これ以上は私の人生だと、思ってくれての事でしょう。
この頃から、たまに二人で呑みに出るようになりました。息子と酒を呑むという行為は、父親にとってはとても嬉しいものらしく、随分と喜んでくれたようです。兄は全くの下戸なので、尚の事だったのでしょう。私の記憶の中では、数少ない親孝行です(笑)。
息子達は家を出て、両親もやっと自分の事ができるようになりました。父は、園芸を始めます。庭も、家の中も花だらけになりました。実家に顔を出す度に、父は庭でゴソゴソと何かをしておりました。以前から庭いじりが好きなのは知っていましたが、ここまで没頭するとは思っていませんでした。昔から好きだった読書にも精力的でした。
父は、私に直接言った事はございませんが、私が嫁をもらって孫を見せる事をとても楽しみにしていたそうです。実の兄は昔っから女っ気が無く、私に期待していたようなのです。ところが、肝心の私の方はと言うと、昔っから女っ気が多すぎてしかもだらしがない。うまくは行かないもんであります(汗)。
本当に自分が不甲斐無い、どんだけ親不孝なのでしょう。
こんな馬鹿息子を、父は見捨てる事無くずっと心配してくれました。私と酒を呑む事と、囲碁をやる事を楽しみだと言ってくれました。親と言うのは偉大なものです。どんなに感謝しても足りる事などありません。
父が63歳を迎えた頃、喘息のように呼吸がかすれ、咳をする事が多くなってまいりました。いつの間にか自発的にタバコをやめておりました。彼の病名は『肺せんい症』。原因のよく分からない、肺が硬くなっていく病気であります。余命は発病から5年、ただしいつ頃発病したかについては分からないとの事でした。
小心者の彼の事、きっとショックは大きいものだったと想像しております。不思議な事に、父の仲が良かった友人や諸先輩方は、65歳で亡くなる方が多かったのです。「やっぱり俺も65までなんだなぁ・・・」とボソッと呟いておりました。この1年後に、酸素のタンクとチューブを常に着用する事を余儀無くされます。
父は庭いじりを続け、私をやっつける為の囲碁の勉強をし、リース作りという新しい趣味を始めます。そして、いつ死んでも良いようにと家の中を片付け始めました。大量の書籍をまとめたり、アルバムに入れてなかった写真を整理したり・・・。私と母は、本人の気が済むようにと見守るだけであります。
祖父が逝き、その半年後に父は入院いたしました。
最後の入院であります。『肺せんい症』の他に小さいながらも『肺癌』ができておりました。合併症のようなもので、手術なども出来ないとの事でした。後は、痛みを少なくしてやる事しか選択肢が無かったようです。父の意志に従い、医師から本人に説明していただきました。
父に投与されるモルヒネの量が、日に日に少しずつ増えていきました。父は、モルヒネで思考が麻痺していくのが嫌だったらしく、メモ用紙に漢字を書いては「おかしい、おかしい・・・」と愚痴をこぼしておりました。メモ用紙を見ると、何だか得体の知れない漢字らしい文字が書いてあります。何かと何かが組み合わさった様な字が・・・。
「思っている字が書けないんだ。これからもっと頭がおかしくなっていくんだろうな。嫌だなぁ・・・。」
「痛ぇよりはマシだろ。」
「あと何日あるんだろうなぁ・・・。」
そんな会話を何度も繰り返しておりました。
母が病院に泊まり込み、私は毎日実家に行き痴呆症の祖母に食事を作ったり、家事全般を引き受けました。母にコンビニ弁当は可哀相だと思い、毎日弁当を作って持って行きました。父はそれを見て喜んでくれました。
そして「すまないなぁ・・・」と。
何が「すまないなぁ・・・」ですか。
貴方達が自分にしてくれた事を考えれば、髪の毛の先ほども恩返しなどできてはいないのです。どんなに何をしようとも、私がした親不孝が消える訳でもなく、何の贖罪にもなりません。
「おう、なんもだぁ。」と言いながら涙が溢れてしまいました。
入院から数日が経ち、医者から別室で説明を受けました。
「今のモルヒネの量では痛みが取れないので、かなりの増量をします。意識が混濁すると思います。お別れになると思いますので、お父様とお話があるのであれば今の内に・・・。」との事でした。先生の口から同様の説明を父にしていただきました。
「そうですか・・・。」と言って、うっすら笑みを浮かべて会釈をしました。先ずは母と、と思い私は退室し外で待っておりました。何を話したかは知りませんが、部屋に入ると母は涙を流し、父は笑顔で頷いていました。
次は、私の番です。
「迷惑ばかりかけてすいませんでした。数々の親不孝をすいませんでした。嫁も孫も見せられずにすいませんでした。自分は父さんの子で最高に幸せでした。心から感謝しています。普通の、人並みの、親としての喜びを味あわせてやれなくてすいませんでした。」
泣きながら話す私を見ながら「うん、うん。」と頷き、
「何を言ってるんだ。何もしてやれなくてすまなかったな。母さんの事、頼むな。」と言いました。
父の目からは涙が流れておりましたが、その顔は笑顔でした。
最後の投薬が開始されました。
薄れいく意識の中で父が「先生にお世話になりましたって伝えてくれ。」と言ったのです。すると母が泣きながら声を絞り出すように「先生にって・・・。私達には何か言う事無いの・・・。」言いました。
「お前たちには何も言う事無いよ。最高だ・・・(笑)。」
これが、父の最期の言葉になりました。
この後、少し苦しそうにうなされ父は眠りに就きました。
最後の言葉を言った時、父は少し息苦しそうでしたが、やはり笑顔でした。あれほど迷惑をかけたのに、髪も真っ白にしてしまったのに、父は笑って許してくれました。それどころか「何もしてやれなくてすまなかったな。」と言われてしまいました。ただただ、涙が止まりませんでした。
父は遺言として、葬式は身内だけで小さくやってくれ、と言っておりました。しかし、東京から父の姉弟達がやってまいります。若かりし頃、『日本の未来』に関わる仕事をしたいと大志を抱いて北海道に渡ってきた父であります。身内だけの小さな葬儀では、東京の親戚連中に彼の人生を軽く見られる気がいたしました。
「あんなに意気込んで家を出て、こんな北の地で死んで、こんなに寂しい葬式か・・・。」こんな事を思われたら、父の人生が台無しになってしまう気がしたのです。馬鹿な事と思われるかもしれませんが、そんな気がしたのです。私の独断で大きな斎場をとりました。
母は、父の意志に反するからと最後まで反対しました。そんな事をしても父は喜ばないと・・・。私は、断固として譲りませんでした。最後の親不孝だから俺の思うとおりやらせろ・・・と。結局、母が折れる形になり盛大な葬儀を行いました。
当時、私は色々と手広く商売をやっていた絡みもあり、会場に入りきらないほどの花が届きました。弔問客も予想より多く、普段は使わない二階席にまで及びました。斎場のスタッフが驚いたほどです。ありがたいものであります。東京から来た親戚は、皆口々に「こんな立派なお葬式は見た事が無い。」とビックリしておりました。
やり方が正しかったか間違っていたかは、正直なところ判りません。しかし、父が北海道に渡ってきた事をとやかく言う者はいないと思います。結果として最後の最後まで、父の言いつけに背いてしまいました(汗)。母も怒っておりました・・・。
私の両親は、全てを犠牲にして子育てをしてくれました。自分達のやりたい事などもあったでしょう。着飾る事もせず、銭のかかる趣味を持つ訳でもなく・・・。子供達、家族のために黙々と働き、家を建て、学校に行かせ・・・。父の最期の表情を見る限り、犠牲という言葉は微妙に当て嵌まらないかもしれませんが・・・。
口下手で、明るくなく、地味な父でありました。私とは、全くと言って良いほどに性格が違います。私は、父の子で最高に幸せでした。感謝しても、感謝して全然足りません。こういう気持ちになれる育て方をされた事に、また更に感謝であります。
生きている内に、もっともっと恩返しをしたかった。
今更、何を言っても不可能であります。
『孝行をしたい時分に親はなし』
『子養わんと欲すれども親待たず』
『墓に布団は着せられぬ』
皆、同じ意味の言葉であります。
是非是非、親が健在の方は私のような後悔をなさらぬよう、親孝行に努めて下さい。
きっと喜んでくれる筈です。
この時期、父の残した庭では綺麗な花が咲き始めます。
父ほど手入れが出来ないので多少荒れてはおりますが・・・(汗)。