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雲のように飄々と…月のように夜道を照らし…
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昨年秋の終わりに、大好きなアノ人と逢った時のお話です。


「全然、連絡無いけど生きてるの?」というメールが来たんです・・・(汗)。
言い辛くて、夏にパクられてた事を報告してなかったんです・・・。それどころか、帰ってきてから一度もメールしてなかったんです・・・。

誰かから聞いたのかもしれないなぁ・・・と思いつつ、そこそこ元気でやってます・・・と言った内容で返信いたしました。すると意外なことに「週末にみんなで集まって呑まない?」という返事が…。この場合の『みんな』は、店の常連さんとか従業員とかを意味しております。

店を閉めた頃は、もう誰とも連絡を取りたくない・・・と言っていた彼女が・・・。きっと昼間の暮らしにも慣れ、やっと精神的にも落ち着いたのでしょう。一昨年の夏祭りの時よりも、彼女の回復を感じました。この事だけでも目頭が熱くなる思いであります。

常連の中でも幹事が得意な奴に連絡をして、大至急週末に飲み会をセッティングしました。彼女の店は、常連同士が仲良くなってしまう不思議な店でした。彼女の人柄のお陰です。閉店した店の常連が集まるなんて事は、そうそうあるものではございません。


急な召集だったために人数こそ少なかったものの、仲の良かったメンバーが集まりました。私は所用があり30分ほど遅刻したのですが、幹事以外の全員(主役の彼女も含めて)が遅刻だったそうです・・・。
大人の集まりなのに・・・。
何なんだ・・・(-_-;)。

周りのメンバーに挨拶もしない内に、彼女を見て「元気だったか?また綺麗になったね。」って言ったんです・・・、私。
遅刻した分際で・・・。
野郎共・・・、一斉に大ブーイングでございます(笑)。好きな人はひたすら褒める、私の一貫したスタイルであります。外野の声なんぞ聞こえません(笑)。

どうやら彼女、私が来るまで皆から「老けた!老けた!」と責められていたようなのです。好きな人ってぇのは、初めて会ったその時から会う度ごとに綺麗になっていくものなんです。これは、いつまでも続くものなんです。歳をとればとるほど綺麗になるんです。

自分の嫁や彼女が歳をとっただの、ババアになっただのと言う連中はただの馬鹿なんです。愛も知恵も足りない野郎共であります。本当に好きな人というのは、例え一緒に暮らしていたとしても、毎日々々一眠りして起きて顔を合わせる度に綺麗になっていくのを感じるものなんです。小ジワもクスミも関係無し、全てが美しく愛おしい存在なんです。

先方が会う度に綺麗になるわけですから、男は昨日よりも更に深い愛情をもって接するべきであります。そういうもんだと本気で思っております。たまに、自分にはイタリア人の血が混ざっていないか不安になります・・・(-_-;)

嘘つき・・・だの、外道・・・だの、極悪人・・・だの、秘密ばらすぞ・・・だのと、そしられながら席に着きました。秘密ばらすぞって・・・、何の事だかは知りませんが大人なんだからそういうのはヤってません・・・(汗)
遠い・・・・・・(T_T)
遅刻したせいで、彼女の席から遠かったんです・・・○| ̄|_

皆、久しぶりの再会で昔話に花が咲き、和気藹々と盛り上がっておりました。ほとんどが私よりも年上なのですが、こういう集まりも良いものであります。
会話の節々に「いいなぁ、隣・・・(-_-メ)」と囁き続けていたら、2次会も3次会も彼女が隣に座ってくれました(笑)。囁き作戦、成功であります。


3次会は、生バンドの演奏とダンスフロアーがある小洒落た感じの店でした。モータウン系の音楽が中心で、昔のディスコを懐かしむ世代のために作られた店って感じがいたしました。ちょっと間違やひと昔前のナイトクラブといったトコですが、上品な内装が良い雰囲気を出しておりました。

生バンドの時間にはダンスフロアーに人が溢れます。実に懐かしい雰囲気です。ウチのチームからも何人か踊りに出まして、彼女も引っ張られて行ったんです。曲に合わせて踊る彼女を見て、へぇーこういうトコで踊っちゃったりするんだぁ・・・と、私の知らない彼女の一面を見て驚いておりました。ライブやらコンサートやらが好きな事は知っていたんですけどね。妙に感心してしまいました。

私も十代の頃はディスコで踊ったりしていたのですが、それ以降はディスコやクラブなどには行ったとしても踊るような事はありませんでした。なにぶん人前でハシャグような職業ではございませんでしたので・・・、踊りとかはちょっと・・・(照)。彼女も「一緒に行こ♪」と一応声をかけてきたのですが、「ごめん、無理・・・(汗)」と言うと、ニコッと笑ってそれ以上は無理強いしませんでした。
「だよねぇ~(笑)」って顔をしてました・・・(;^_^A

しばらくするとバンドがスローな曲を演奏し始めました。
少し照明も暗くなり・・・
どうやら、チークタイムなようです・・・
さすが大人を対象にした店・・・、今時チークって・・・
と思っていたら、ウチのチームの連中が無理矢理に私をダンスフロアーに引っ張って行こうとするんです。

「バカヤロー、こっ恥ずかしいからヤダよ!ヤメろよ、んのやろー!」とかって抵抗しておりました。助けを求めるようにフロアーの方を見ると、彼女が満面の笑みで『来い来い♪』というジェスチャーをしてやがります・・・。
くっ・・・
助けるどころか、君もグルですか・・・_| ̄|○

連中からすればプレゼントのようなつもりなんでしょうが、私こういうのが大の苦手であります・・・(汗)。
こういうトコだけ、やけに日本男児です・・・。
彼女が『来い』と言っている以上、抵抗する理由も失い、観念してフロアーに連行されました。当の彼女は、立てないクララを迎えるハイジのように両手を広げて私を待っています・・・。
あのイタズラっ子のような、彼女のズル~い笑顔が忘れられません・・・

チークなんて初めてです・・・
今まで人様がやってるのは散々見てきましたが、強烈に冷ややかな目で見ておりました。
まさか、自分がヤラされるとは・・・(汗)
「ど、どこに手を持ってけば良いの?」・・・(ーー;)
最初から、こんな感じです・・・

なんとか彼女の指示通りに手を回しまして・・・
「なんとなくユラユラしてなさい!」と言われ、ユラユラと・・・
「すごく緊張するんですけど・・・」(ーー;)
「アハハ、そんな顔ひさびさに見たぁ♪」とかって、喜んでる始末であります。
この時私、どんな曲が流れてたんだか一切覚えておりません・・・(汗)

ちゃんこいなぁ・・・ (小さいなぁ)
私の身長も170センチと大した背丈ではございませんが、彼女は155センチ。小さくて明るくて可愛い人なんです。
彼女が店を閉めた時、本当にもう逢えないと覚悟していました。自分の腕の中に彼女がいる事自体が、私にとっては奇跡的な出来事でした。

彼女が強く抱きついてきて、私の胸にギューっと顔をうずめてきました。まわりに人がいっぱいいるのに・・・、久しぶりの酒で酔っていたのでしょう。彼女の声が聞こえるように少し頭を下げると
「今日は本当にありがとう・・・」と。
「ん?何が?」と惚けて聞くと・・・
「また、こうやってみんなで集まって呑めると思わなかったから・・・」
「ん、そうか。そうだよなぁ・・・」

皆が集まってくれたのは、ひとえに彼女の人柄によるものであります。彼女の築いた店が、皆にとって居心地の良い場所であった証拠であります。
「店を閉める時ね、色んな噂をたてられたじゃない。あの頃、皆が陰で私の事を悪く言ってるような気がして、怖くて人の顔が見れなかったの・・・。今日も、本当は皆に会うのが少しだけ怖かったの。でも皆優しくしてくれて、誰も噂の事なんて話題にしないで・・・。何だかわかんないけど嬉しくて・・・。」

妊娠しただの、結婚するだの、金持ちの妾になったから店を閉めるだの、確かに非道い噂が流れておりました。私の耳にも色々と聞こえてきたのを覚えております。その噂がどんなに彼女を傷つけたか・・・、思い出しただけでも腹が立ちます。やはり、悲しい出来事というものには時間が一番の薬なのかもしれません。
「そっか、良かったね。皆にもちゃんと『ありがとう』って伝えなさいよ。」
「うん♪」

他にも彼女は色々と話してくれました。これまでの経緯を思うと、私も涙が溢れそうになりました。それに加えて緊張と照れで、彼女の話に「うん、うん」と相槌を打つのが精一杯でした。

「ちゃんと聞いてくれてる?」
「うん・・・」
「ホント?今、違う事考えてたしょ?」
「うん・・・、いやいや何も考えて無ぇよ・・・」
「ウソだぁ、ワカるんだよ!」 ・・・ワカるんだそうです(-_-メ)
「うぅ・・・。いやぁ、昔もこんな事あったなぁって思い出してた・・・」

もう、5年位前の事でしょうか・・・
それは、年末のとある日曜日。街で商売をしている連中が集まって、クリスマス兼忘年会を毎年やっていたんです。全部、私が仲良くしている連中です。そこに、初めて彼女を連れて行った帰りの話です。

忘年会の店から歩いて5分位の所が彼女のマンションだったので、歩いて送ることになりました。真冬の凍える空気の中、手をつないで歩いておりました。道々「あんまり知らない人達の中に入ると疲れちゃうね。なんかアウェーって感じだった(笑)」なんて話をしながら帰ったんです。

年末だし、夜中だし、静かだし、人影なんてまるで無いし、二人共ちょっと酔ってたし・・・
マンションの下についた時、キスをしたくてつい抱き寄せてしまったんです。ちょうど、チークダンスのような体勢です。彼女も強く抱きついてきて、私の顔をじっと見つめていました。当然、キスしようとしたワケですが・・・
「やっぱりダメ・・・」私の胸にギュっと顔をうずめました。
「うん・・・」
「もう少しこのままでいて・・・」
「うん・・・」

抱き合ったまま、どのくらいの間そうしていたのでしょう・・・
気がつけば、雪が降り出し、吹雪になっていました・・・
店をやっている間は誰とも付き合わない、それに関して私も文句を言わない、それが二人の約束事でしたから・・・

吹雪の中、互いに離れられなかったあの夜の事を思い出しておりました。
「こんな事って、あの吹雪の時?」
「うん・・・」
「懐かしいね・・・。寒かったね♪(笑)」
「うん・・・」

随分と長くフロアーにいたような気がします。
何分ほどの時間だったのか、何の曲が流れていたのか、全く記憶に有りません・・・。せめて曲ぐらい覚えていれば、きっと想い出の曲になった事でしょうに。まぁ、いっぱいいっぱいだったので仕方がありません・・・(汗)。



何の曲だったかさっぱりワカらないので、私の頭の中では勝手に田村直美の『キセキ』というスローバラードが流れております♪


 

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飯の話に突入いたします。
先ずは順番で、留置場の飯のお話です。

法に背いて捕まったというのに、何故か3度3度の飯を与えられます。冤罪の人や無罪の人も混ざっている可能性があるのですから、やはり3食出さなきゃ問題がある訳であります。娑婆じゃ1日3食なんて生活をした事がございません・・・(汗)。


留置場では、3食全て仕出弁当でした。これがまた、思いの他立派な弁当なのであります。1食の単価は399円。品数の多いおかずと、たっぷりご飯の2段弁当です。おまけに毎食、
アツアツのみそ汁まで付いております。よくもまぁ400円ぽっちで、ここまでの物を出せるもんだなぁ・・・、といつも感心しておりました。企業努力の賜物です。

3食ともに同じサイズの弁当ですから、当然朝飯も同じ量であります。普段から朝飯を食う習慣が無いので、結構ツラい・・・。しかも、あの量・・・(汗)。ただで食わせてもらっているので、文句を言うつもりは更々ございませんが、もっと少なくても充分だと思います。

普通の成人男性が、あの飯を毎食完食していたら、確実に太り続ける事でしょう。とにかく、少しやり過ぎであります。コンビニ弁当よりも立派ですし、味も良かったりします。こんな所で出る飯が美味かったなんて、初めてであります(汗)。

さすがに全ての施設で・・・、という訳ではないようです。各々の署で取引業者が違うらしいので、とりあえずこの施設は当たり・・・という事なのでしょう。せっかく3食美味い飯を出してくれたのですが、いつも半分残しておりました。なんせ狭い檻の中で、カロリーなんざ全然消費しない訳ですから・・・(汗)。

弁当自体には何の不満もございませんでしたが、1ヶ月も過ぎてくると色々と食べたい物が頭に浮かぶようになるものです。これと言って、すごい物を食べたくなる訳ではありません。パンや麺などの、ごくごく普通の物を食いたくなるのです。弁当の端っこに、スパゲティーや焼きそばが入っていたりはしますが、それじゃあダメなんです。おかずではなく、食事としての麺を食いたいんです。ラーメンとか蕎麦とか・・・、ハンバーガーとかカレーパンとか・・・。

食えないと思えば思うほど、頭の中に強くイメージが膨らむものであります・・・(怒)。しかも、他愛も無い物ばかりです。
「飯食いに行こうぜ!何食いたい?」
「パン・・・」
普段じゃありえない会話です・・・。


ラーメン、冷やしラーメン、ざるそば、ハンバーガー、ツナサンド、カレーパン、納豆、カレーライス、寿司、タコ焼き、アイスクリーム、ウーロン茶、ミンティア・・・etc。
檻の中で食いたくなった物です・・・(汗)。


悪い事はするもんじゃありません・・・


娑婆じゃ簡単に食える物ばかりです・・・

拘置所は、裁判による判決を待つ人間が入る施設であります。
留置場は警察の管轄ですが、拘置所は刑務所の管轄なのです。
ここでの規則は、監獄法という法律で定められております。

拘置所では、基本的には労役の義務がございません。裁判の結果如何では、無罪放免になる人間や、執行猶予付きの人間も収監されていますので、むやみに働かせる訳にはいきません。労働作業が無いぶん、強烈に暇であります。何かしらの作業があった方が、時間が経つのも早く、気が紛れるというものです。


独居房の広さは、3畳+1畳(洗面台と便所)。居住部分の3畳に、小さな文机、衣装箱、布団が1組。洗面台の方に、バケツ2個、雑巾2枚、ホウキとチリトリが備えられております。洗面台の横に小さな整理棚が据え付けてあり、そこに箸や湯呑、石鹸、歯磨き粉、ポット、ちり紙、調味料、間食類、等々を置かなければなりません。

差し入れやら、物品購入やらで、物が増えるとすぐに置ききれなくなってしまいます。着替えや、菓子、本、文房具などは、全て衣装箱の中にしまいます。昔はこんな立派な衣装箱(立派と言っても押し入れ用の引出式プラケース)などは無く、銭湯の脱衣カゴみたいなのが1人に1つずつ与えられただけでした。

昔は下着や服なども数に制限があったのですが、最近は衣装箱に収りさえすれば数に制限は無いようです。監獄法が改正になって、少しだけ融通が利くようになったのでしょう。


拘置所では、物品購入が可能で、色々な生活用品や食料品を注文する事ができます。結構品数が豊富で、文房具だけでも約50品目が用意されております。ちなみに、Tシャツやらパンツやらの衣装類も約50品目。

その中で、一番高かったのは《メリヤス(茶)A、LL、¥4850》、2位が《メリヤス(茶)A、L、¥4060》、上位はメリヤスが占めておりました。このメリヤスという物、若い方は聞きなれないと思いますが、ちょっと厚手の肌着の事でございます。これは刑務所の懲役さんが冬場に着るための物です。拘置所で買う奴は、ほとんどおりません。

他に高額商品といえば《電気カミソリ、ナショナル(電池別売り)¥3900》、《そろばん¥3000》、こんなトコでしょうか。最も安かったのは《鉛筆キャップ¥10》でした。《万年筆スペアインク¥35》《鉛筆¥45》《鉛筆削り¥45》《つまようじ¥60》他にも様々な物があるのですが、どれもそこそこ良心的な値段がつけられておりました。

食料品においては、何と100品目の中から注文できるのです。こちらの高額商品は何気に微妙であります。何種類か果物があるのですが、こいつらの値段は《時価》・・・(汗)。まぁ、ここら辺は無視いたしまして、堂々の1位は? な、何と《仁丹¥355》・・・。今まで《仁丹》は薬屋で買う物だと思ってました・・・。っていうか、まだ売っていたんですね(笑)。

《仁丹》に続くのが、《一口ようかん¥280》《カスタードケーキ¥280》。菓子だけでも約30種類、カップ麺や菓子パン、缶詰類、調味料、酒のツマミ的な物まで買う事ができるのです。味付け海苔やフリカケ、梅干、キムチ等は、麦シャリを食うためには心強い味方であります(笑)。

晩飯が夕方の4時過ぎで、朝飯が朝8時位ですから、ついつい小腹がすいてしまうのです。嫌がらせのようなスケジュールであります・・・。
(※麦シャリ・・・麦めしの事。米7:麦3の割合です。)

こうして檻の中でも、ある程度の買い物ができるのであります。昔よりも品数が増えた事にも驚きましたが、もっと驚いた事が有ります。買い物の注文には『願箋(がんせん)』と呼ばれる書類を使うのですが、勝ち馬投票券のようなマークシート式になっておりました。進化しているなぁ・・・、そんな気がいたしました。

《仁丹》には後ほど随分と助けられる事になるのですが、そのお話はまた今度に・・・。


全く話は違うのですが、房内の壁にはカレンダーが貼られております。そのカレンダーには『矯正協会(きょうせいきょうかい)』と印刷されています。住所も電話番号も印刷されておらず、ただ矯正協会とだけ・・・。恐らくインチキな何チャラ法人とか、何チャラ財団なんでしょう。天下りの匂いがプンプンといたします・・・。

きっと、こんなショボいカレンダーを関連施設に高額で納入して稼いでるんでしょうねぇ・・・

汚ぇなぁ・・・ (-_-メ)

拘置所での事を書きます。
ここでの私は、未決被収容者という立場であります。
要するに裁判の結果待ちの人間という事です。

先ずは、1日の流れをお教えします。

AM7:30に起床、10分後に朝点検。
結構、遅い朝です。これは、同じ敷地内にある刑務所と関係があるのです。刑務所の起床は6:30、拘置所よりも1時間早いんです。拘置所には『掃夫』という、舎房の雑務係がおります。この人達、実はお隣の囚人なのです。労働として拘置所の『掃夫』を担当している事になります。拘置所では、ほとんどの雑務が掃夫の手によって行われます。だから、彼らが朝飯を終えて出勤してくる時間が、拘置所の起床時間になるのです。起きたら先ず布団をたたみ、常備してあるホウキと雑巾で室内を掃除します。

朝点検とは、それぞれの房の外(廊下)から、中の人員、並びに起床を確認する作業であります。私は独居ですので、外から刑務官が「○○号室1名!」と声をかけます。自分に与えられた番号(称呼番号という)で「○○番!」と答えるのです。これを全室繰り返して、朝の点検は終了です。

各舎房で一斉に点検が行われるのですが、それなりに多くの被収容者がいますので、拘置所全体での点検に10分ほどかかります。朝点検が終るとすぐに朝食の時間となります。食事の事は、違う回で詳しく説明したいと思います。

朝飯が終わり一段落すると、あとは自由時間みたいなものであります。平日の午前中には、運動か入浴のどちらかが必ずあります。どちらかですので、両方が行われる事はありません。土日は免業日と呼ばれ、房から出る事はありません。

運動は30分間、屋上にある独居者用の運動場で行います。約2m×10m位に細かく区切られたスペースがあり、その入口には当然頑丈な鉄格子。屋根は無いのですが、代わりに上にも鉄格子が張り巡らされております。気持ちの良い快晴の空も、鉄格子越しに見上げなければなりません。無粋ですねぇ…(汗)。

この運動は、各々房の単位で行われます。私は独居ですので、この時間も独りであります。30分間、独りで狭いスペースをフラフラと歩き回ったり、柔軟体操をしてみたりと…。まぁ、ヒマを持て余す訳ですが、3畳の独房にいるよりは気分が良いといった感じであります。

入浴は季節によって回数が違うようです。夏場は週3回、冬場は週2回、入浴時間は15分であります。独居は一人ずつ、雑居は2人ずつで行われます。風呂場の入口で称呼番号を言うと、自分の番号が書いてあるT字カミソリを貸してくれます。使い回しをすると肝炎などの病気がうつる可能性があるので、各個人に割り当てられています。

運動後や入浴後には速やかに房に戻り、読書をするなり、書き物をするなり…。房の中では基本的には自由なのですが、横になる事だけは許されておりません。留置場と違い、拘置所は刑務所の管轄であります。拘置所にいるという事は、すでにペナルティとしてカウントされているので、あまりダラダラと生活する事はゆるされていないのです。とは言いましても、それ程厳しいわけでもございません・・・。

AM11:40に、少し早いですが昼食。
その後、12時から13時まではラジオが流れ、『午睡(ごすい)』と呼ばれる昼寝の時間となります。この時間は横になっても構いません。なんと、照明も暗くなります(笑)。

PM1:00からは、また自由時間であります。起きていなければなりませんので、必然的に読書か書き物となります。雑居房(5人部屋)であれば、将棋や囲碁をする事も出来ます。大声を出さなければ、雑談も出来ます。独居は退屈との闘いなんです・・・。

昼食後の1時間と夕方16時以降は、ラジオ放送が各房に流れます。選局はできません。しかし、人気調査に基づいて番組を決めているらしく、それなりに良い番組ばかりでした。夕方は地元の人気AM、夜はFMが多かったようです。房内では、時間がわかりませんので、ラジオはかなり重要であります。

PM4:20には、もう夕食です。
たいして腹も減っていないのに、決った時間には食事孔から飯を入れられる・・・。狭い房で毎日、毎日・・・。なんか、飼われている気分になります。これがブタ小屋と呼ばれる所以であります。

PM5:00、夕点検。
朝との違いは、各房のドアを開ける事。ドアをガチャっと開けて「○○号室1名!」、これを受けて「○○番!」。施錠を確認して点検終了。ここからは、本当の自由時間であります。布団を敷いて寝てもOK、ゴロ寝で読書も許されるのです。もちろん、そのまま就寝しても構いません。

PM9:00、消灯。
ラジオ放送も終わり、消灯となります。消灯と言っても照明が薄暗くなる程度で、夜通し本を読む事も可能な位の明るさです。本を読んでいるのを見つかると怒られますが・・・。何回も見つかると懲罰の対象になります・・・(汗)。

看守が夜通し見回りをするので、房内を監視できる程度の明るさが保たれる訳です。暗くなければ眠れない人には最悪ですね(笑)。

土日の免業日には、運動も入浴も面会も無し・・・。房から出る事はありません。ラジオが朝9時から消灯まで流れています。


これが、拘置所での1日であります。

その光景を見るだけで・・・
その言葉を聞くだけで・・・
その曲が流れるだけで・・・
その場所を通るだけで・・・
その場所に立つだけで・・・
だたそれだけで、思わず涙が溢れ出す・・・。

そんな、ピンポイントのツボのような、スイッチのような部分が誰にでもいくつかはある筈です。生々しい強烈な記憶であったり、切ない思い出であったり、空想で美化された虚空の世界であったり、そのスイッチは人それぞれ、様々なものであると思います。

この曲を聴くと自然に涙が出る・・・、なんてのは良くある話でございます。音楽がスイッチになっている場合は、恋愛が絡んでいる事が多いようにお見受けします。それでもって、ちょっとB級な曲・・・。あまりに大ヒットした曲だと、街中でしょっちゅう耳にしては泣く事になってしまいます。カラオケなんかでも頻繁に歌われて、その都度泣いていたんじゃ、美しい想い出もクソもあったもんじゃありません。だから、B級な曲。

私の場合、どうもスイッチの数が多いようで困っております。感情の起伏が激しいタイプなので、精神的に不安定な部分があるのでしょう(汗)。誰にも止められないほど怒り狂う事もあれば、川をのぼる鮭を見てポロッと独り涙する事もございます。たまに、その鮭を捕まえて食べてしまう辺りがまた始末に悪い・・・。困ったもんです。

センチメンタルな、秋の到来であります。
ただでさえ短い北海道の夏、そのうえパクられていた私には見事に夏はありませんでした。夏を惜しんで感傷的になるというよりは、夏を満喫できなかった事に対する落胆の気持ちの方が強いようです(汗)。めっきり朝晩涼しくなりました。寒い位です・・・。

先日、NHKで黄河の映像を見て、つい涙を流してしまいました。祖父が亡くなってからというもの、黄河の映像がスイッチになってしまったのです。本当は別に季節なんか関係無いのですが、なんとなく秋っぽく話題に入ってみようかなぁなんて思っていたら、前振りがこんなに長くなってしまいました・・・。

私が子供の頃から、祖父は事あるごとに「お前が大きくなったら、中国に一緒に黄河を見に行こう!」と言っておりました。祖父の一度目の出征先が、中国だったのです。若き日に見た黄河、その壮大さと感動は少しも色褪せる事無く、終生祖父の記憶の中に描かれていたようです。

本当に流れている水が黄色い事。川だと言うが海のように広く、対岸がまるっきり見えない事。皆で記念に水を汲んだが、汲んでみると以外に普通の水だった事。その支流で敵襲を受け、多くの戦友が亡くなった事・・・。私は、実際に黄河を見た事はありません。しかし、祖父の話を暗記するほど聞かされていたお陰で、私の頭の中には想像の黄河があるのです。それはそれは大きくて、見渡す限り黄色い海のような・・・。

結局、祖父と中国に行く事は叶いませんでした。
安易に黄河と申しましても、とんでもなく長い河であります。北海道の先っぽから、沖縄の果てまでよりも、まだ長いのです。祖父が黄河のどの辺を見たのかは、残念ながら全くわかりません。それでも、いつかこの目で黄河を見たいと思っております。祖父が私に伝えたかった感動を、私も体験してみたい・・・。

見た事も無い想像の河『黄河』、その映像を見て涙する・・・。
手前の事ながら、変な感じがいたします。人間とは、何とも不思議なメカニズムで動いているものです。嬉しくても出る、悔しくても出る、悲しくても出る、何かを思い出しても出る・・・、涙は不思議なもんです。この歳になると、余計に涙腺がゆるくなった気がします。

『黄河』という響きがまた良いですね、少し哀愁があって・・・。アマゾン川やナイル川じゃ、あまりにワイルド過ぎますし、ミシシッピ川なんて言い辛くて仕方がありません(笑)。アマゾン川、ナイル川、ミシシッピ川に深い想い出をお持ちの方がいたらゴメンナサイ。ただの軽口です・・・。


もう1箇所、勝手に涙が出る場所のお話をします。
我が市の誇る観光スポット『サッポロファクトリー』、サッポロビールの工場跡地に建てられた、大型ショッピングモールであります。メインのアトリウム(高さ39メートルの吹き抜けのガラスドーム)に行くと、必ずポロッときてしまうのです。観光スポットなどと言いつつも、実は地元の人間の遊び場でもあるのです。

※サッポロファクトリー
http://www.sapporo-factory.co.jp/guide/index.html

ここも、やはり祖父が絡んでおります(笑)。
オープン当時、連日客が殺到し、常に大混雑の状態が続いておりました。駐車場は長蛇の列、ファクトリーの周囲一体がいつも大渋滞・・・。祖父は何年も前から、そこら一帯を散歩コースにしておりました。車で行けば大変ですが、徒歩だとサクッと入れたのだそうです。

大正生まれの祖父にとって、その建物はこの世の物とは思えない位の衝撃だったようです。ひどく興奮しながら、その近代建築の素晴らしさを語っておりました。私も初めて中を見た時には、思わず溜め息が出たほどですので、祖父の驚きようにも充分理解ができます。

「すごい物ができたもんだ!」
「すごい時代になったもんだ!」
「何とも素晴らしい建物だ!」
「日本はすごい国になったもんだ!」
袖の下でも渡されたんじゃないかと思うほどに、賞賛の言葉を連呼しておりました(笑)。

「今度、あそこで一緒にサッポロビール呑むべ!」
巨大な吹き抜けのガラスドームには、オープンテラスを配した飲食店がいくつもございます。そのテラス席で、私とビールを呑むのが祖父の希望でした。まぁ、所詮は近所ですから、そんなもんお安い御用であります。

その後、何度も私の方から誘ってみたのですが、「今日は、ちょっと大儀だなぁ。」とか「今日は、なんか気分じゃねぇなぁ。」などと断られ、中々タイミングが合う事がありませんでした。なんせ場所が近いので、祖父が行きたいと言えば、いつだって行けるだろうとタカをくくっておりました。

祖父は、若い頃から糖尿病を患っておりました。ただし、病気との付き合い方が上手だったらしく、大きく体調を崩すような事はありませんでした。亡くなるまでの2週間が、最初で最後の入院となりました。

入院中もかなり元気で「退院したら、今度こそビール工場んトコに行こうな。俺はジュース飲むから、お前ビール呑め!俺はもう酒はいいや(笑)。」なんてニコニコしながら言っておりました。数日後、トイレに行こうとベッドから立ち上がり、そこで意識を失い倒れてしまったそうです。そのまま、帰らぬ人となりました。

母からの電話で慌てて病院に行きました。祖父はチューブにつながれ、強制的に呼吸を維持している状態で、意識はもう戻る事が無いと聞かされました。医者は母と私に順番に視線を送り、「どうなさいますか?」と言いました。チューブを外しますか、それとも生命だけを維持しますか、という意味であります。

母が私の顔をじっと見て、黙ってうなずきました。
「外してあげて下さい・・・」
こんな短い言葉なのに、私はちゃんと喋れず言葉になっておりませんでした。数秒だったのか、数分だったのか、ほんの少しの間ですが、チューブを外してからもかすかに自力で呼吸しておりました。静かに呼吸が弱くなり、そのまま眠りに就きました。わずかな時間ですが、別れの時間を作るため頑張って呼吸をしてくれたのだと思います。

「病気が原因ではありません。これは老衰と言って良いでしょう。天寿を全うされたのだと思います。」医者はそう言っておりました。毎日見舞いに行っていたのに、なぜ私が居ない時に倒れたのか・・・。悔しくて仕方がありませんでした。

昨日まで元気だったのに・・・、意外なほどあっさり祖父は逝ってしまいました。今になって考えると、つくづくあの人らしいなぁと思います。頑固で、厳格で、人に世話をかけるのが大嫌いな人でした。らしいなぁ・・・、本当にそう思います。

結局、一緒にビールを呑む約束は果たせずじまいのままであります。祖父は最後まで『サッポロファクトリー』という名称を覚えませんでした。だから、話す時はいつも『ビール工場んトコ』(笑)。楽しそうに、ビール工場んトコにできた新しい建物の素晴らしさを説明する祖父の顔を思い出します。

今でもサッポロファクトリーには、よく買い物や食事に行くのですが、テラス席での食事は避けております。意味も無くこんなガラの悪いオッサンが、ポロッと涙を流したら、一緒にいる人間も、周囲の人もドン引きすること間違いなしですからね・・・(笑)。


ついつい涙が出てしまう事・・・、それも大切な事だなぁと最近感じております。

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卒業後は繁華街に住み着き、ウェイターなどをやりながらも好き勝手な生活をしておりました。好き勝手と言いましても所詮はガキ、酒・女・喧嘩、こればっかりです(笑)。まだ兄貴分と会う前の話であります。

父は、何度か私の働いている店に呑みに来てくれました。真面目に、がむしゃらに働き続け、この頃には借金は大体片付いていたようです。昔父が良く行っていたというスナックにも、何軒か連れて行かれました。そこのママさんと話をする父を見て、こんな顔をして笑うんだなぁと思ったものです。

酔ってこんなに笑っている父を見た事がありませんでした。いや、見た事が無かった訳ではありません。私がチビの頃、写真の中の父はいつも良い笑顔だった筈です。私が、迷惑ばかりかけていた所為であります。私が、父から笑顔を奪っていたのです。気付いたところで、時間を戻せる訳でもありません・・・。

その後も、親不孝を重ねる事を承知の上で、今の業界に身を投じる事になります。家族に具体的な内容や、どこの組に所属しているかなんて話はした事がありませんが・・・。父からも聞かれた事はありません。ちゃんと元気にやっていて、飯もちゃんと食えているようだから、これ以上は私の人生だと、思ってくれての事でしょう。

この頃から、たまに二人で呑みに出るようになりました。息子と酒を呑むという行為は、父親にとってはとても嬉しいものらしく、随分と喜んでくれたようです。兄は全くの下戸なので、尚の事だったのでしょう。私の記憶の中では、数少ない親孝行です(笑)。

息子達は家を出て、両親もやっと自分の事ができるようになりました。父は、園芸を始めます。庭も、家の中も花だらけになりました。実家に顔を出す度に、父は庭でゴソゴソと何かをしておりました。以前から庭いじりが好きなのは知っていましたが、ここまで没頭するとは思っていませんでした。昔から好きだった読書にも精力的でした。

父は、私に直接言った事はございませんが、私が嫁をもらって孫を見せる事をとても楽しみにしていたそうです。実の兄は昔っから女っ気が無く、私に期待していたようなのです。ところが、肝心の私の方はと言うと、昔っから女っ気が多すぎてしかもだらしがない。うまくは行かないもんであります(汗)。

本当に自分が不甲斐無い、どんだけ親不孝なのでしょう。
こんな馬鹿息子を、父は見捨てる事無くずっと心配してくれました。私と酒を呑む事と、囲碁をやる事を楽しみだと言ってくれました。親と言うのは偉大なものです。どんなに感謝しても足りる事などありません。

父が63歳を迎えた頃、喘息のように呼吸がかすれ、咳をする事が多くなってまいりました。いつの間にか自発的にタバコをやめておりました。彼の病名は『肺せんい症』。原因のよく分からない、肺が硬くなっていく病気であります。余命は発病から5年、ただしいつ頃発病したかについては分からないとの事でした。

小心者の彼の事、きっとショックは大きいものだったと想像しております。不思議な事に、父の仲が良かった友人や諸先輩方は、65歳で亡くなる方が多かったのです。「やっぱり俺も65までなんだなぁ・・・」とボソッと呟いておりました。この1年後に、酸素のタンクとチューブを常に着用する事を余儀無くされます。

父は庭いじりを続け、私をやっつける為の囲碁の勉強をし、リース作りという新しい趣味を始めます。そして、いつ死んでも良いようにと家の中を片付け始めました。大量の書籍をまとめたり、アルバムに入れてなかった写真を整理したり・・・。私と母は、本人の気が済むようにと見守るだけであります。

祖父が逝き、その半年後に父は入院いたしました。
最後の入院であります。『肺せんい症』の他に小さいながらも『肺癌』ができておりました。合併症のようなもので、手術なども出来ないとの事でした。後は、痛みを少なくしてやる事しか選択肢が無かったようです。父の意志に従い、医師から本人に説明していただきました。

父に投与されるモルヒネの量が、日に日に少しずつ増えていきました。父は、モルヒネで思考が麻痺していくのが嫌だったらしく、メモ用紙に漢字を書いては「おかしい、おかしい・・・」と愚痴をこぼしておりました。メモ用紙を見ると、何だか得体の知れない漢字らしい文字が書いてあります。何かと何かが組み合わさった様な字が・・・。

「思っている字が書けないんだ。これからもっと頭がおかしくなっていくんだろうな。嫌だなぁ・・・。」
「痛ぇよりはマシだろ。」
「あと何日あるんだろうなぁ・・・。」
そんな会話を何度も繰り返しておりました。

母が病院に泊まり込み、私は毎日実家に行き痴呆症の祖母に食事を作ったり、家事全般を引き受けました。母にコンビニ弁当は可哀相だと思い、毎日弁当を作って持って行きました。父はそれを見て喜んでくれました。
そして「すまないなぁ・・・」と。

何が「すまないなぁ・・・」ですか。
貴方達が自分にしてくれた事を考えれば、髪の毛の先ほども恩返しなどできてはいないのです。どんなに何をしようとも、私がした親不孝が消える訳でもなく、何の贖罪にもなりません。
「おう、なんもだぁ。」と言いながら涙が溢れてしまいました。

入院から数日が経ち、医者から別室で説明を受けました。
「今のモルヒネの量では痛みが取れないので、かなりの増量をします。意識が混濁すると思います。お別れになると思いますので、お父様とお話があるのであれば今の内に・・・。」との事でした。先生の口から同様の説明を父にしていただきました。

「そうですか・・・。」と言って、うっすら笑みを浮かべて会釈をしました。先ずは母と、と思い私は退室し外で待っておりました。何を話したかは知りませんが、部屋に入ると母は涙を流し、父は笑顔で頷いていました。

次は、私の番です。
「迷惑ばかりかけてすいませんでした。数々の親不孝をすいませんでした。嫁も孫も見せられずにすいませんでした。自分は父さんの子で最高に幸せでした。心から感謝しています。普通の、人並みの、親としての喜びを味あわせてやれなくてすいませんでした。」

泣きながら話す私を見ながら「うん、うん。」と頷き、
「何を言ってるんだ。何もしてやれなくてすまなかったな。母さんの事、頼むな。」と言いました。
父の目からは涙が流れておりましたが、その顔は笑顔でした。

最後の投薬が開始されました。
薄れいく意識の中で父が「先生にお世話になりましたって伝えてくれ。」と言ったのです。すると母が泣きながら声を絞り出すように「先生にって・・・。私達には何か言う事無いの・・・。」言いました。
「お前たちには何も言う事無いよ。最高だ・・・(笑)。」

これが、父の最期の言葉になりました。
この後、少し苦しそうにうなされ父は眠りに就きました。

最後の言葉を言った時、父は少し息苦しそうでしたが、やはり笑顔でした。あれほど迷惑をかけたのに、髪も真っ白にしてしまったのに、父は笑って許してくれました。それどころか「何もしてやれなくてすまなかったな。」と言われてしまいました。ただただ、涙が止まりませんでした。

父は遺言として、葬式は身内だけで小さくやってくれ、と言っておりました。しかし、東京から父の姉弟達がやってまいります。若かりし頃、『日本の未来』に関わる仕事をしたいと大志を抱いて北海道に渡ってきた父であります。身内だけの小さな葬儀では、東京の親戚連中に彼の人生を軽く見られる気がいたしました。

「あんなに意気込んで家を出て、こんな北の地で死んで、こんなに寂しい葬式か・・・。」こんな事を思われたら、父の人生が台無しになってしまう気がしたのです。馬鹿な事と思われるかもしれませんが、そんな気がしたのです。私の独断で大きな斎場をとりました。

母は、父の意志に反するからと最後まで反対しました。そんな事をしても父は喜ばないと・・・。私は、断固として譲りませんでした。最後の親不孝だから俺の思うとおりやらせろ・・・と。結局、母が折れる形になり盛大な葬儀を行いました。

当時、私は色々と手広く商売をやっていた絡みもあり、会場に入りきらないほどの花が届きました。弔問客も予想より多く、普段は使わない二階席にまで及びました。斎場のスタッフが驚いたほどです。ありがたいものであります。東京から来た親戚は、皆口々に「こんな立派なお葬式は見た事が無い。」とビックリしておりました。

やり方が正しかったか間違っていたかは、正直なところ判りません。しかし、父が北海道に渡ってきた事をとやかく言う者はいないと思います。結果として最後の最後まで、父の言いつけに背いてしまいました(汗)。母も怒っておりました・・・。


私の両親は、全てを犠牲にして子育てをしてくれました。自分達のやりたい事などもあったでしょう。着飾る事もせず、銭のかかる趣味を持つ訳でもなく・・・。子供達、家族のために黙々と働き、家を建て、学校に行かせ・・・。父の最期の表情を見る限り、犠牲という言葉は微妙に当て嵌まらないかもしれませんが・・・。

口下手で、明るくなく、地味な父でありました。私とは、全くと言って良いほどに性格が違います。私は、父の子で最高に幸せでした。感謝しても、感謝して全然足りません。こういう気持ちになれる育て方をされた事に、また更に感謝であります。

生きている内に、もっともっと恩返しをしたかった。
今更、何を言っても不可能であります。
『孝行をしたい時分に親はなし』
『子養わんと欲すれども親待たず』
『墓に布団は着せられぬ』
皆、同じ意味の言葉であります。


是非是非、親が健在の方は私のような後悔をなさらぬよう、親孝行に努めて下さい。


きっと喜んでくれる筈です。


この時期、父の残した庭では綺麗な花が咲き始めます。
父ほど手入れが出来ないので多少荒れてはおりますが・・・(汗)。

私の育った家庭は、極々普通の中流家庭でございます。
中流と言う表現はあまり好きではありません。何不自由なく、そして愛情をたくさん注がれ育てていただきました。そういう意味では、私にとっては上流・・・、いや特上家庭であったと思っております。

私の父は、昭和11年生まれ東京出身であります。勉学に励んだ人で東京の立派な大学を出ております。当時は東京教育大学、今の筑波(つくば)大学の前身だそうです。父が就職をした時代には、一流の大学として扱われておりました。何の職に就くにしてもエリートコースを約束されたようなもんであります。学士様という奴ですね。

父方の祖父は戦時中、軍需工場を経営していたそうで、東京空襲が始まるまではかなり金回りも良く、成金状態でブイブイ言わしていたようであります。しかし、戦後は没落してしまい随分と貧乏をしたそうです。戦後は祖母が、小さな焼鳥屋を営み大変な苦労をしながら家計を支えました。

父は、当時かなりの難関であった奨学金の試験をパスし、自力で大学に進学いたしました。大学進学後2年間勉強し、そして1年間休学します。休学中の1年間は、弟の高校進学の金を作るために働いたのだそうです。その後、残りの2年間また勉強をし、見事に卒業いたしました。なかなかの苦労人、立派な人であります。

父が、大学を卒業したのは昭和30年代前半、日本が敗戦から立ち上がろうとしていたエネルギッシュな時代であります。大きな志を抱いた学士様は、未来に大きく関わる仕事をしようと考えました。焼け野原は建築ラッシュ、当時は木造建築が主流でした。しかし、木造の技術もまだまだ未熟、製材や合板の技術も全くと言って良いほど無かったそうです。

彼は、木材という分野を選択いたしました。今で言う、フローリングや集成材、化粧ベニヤや木目調化粧板などの技術開発や製造をする仕事です。当時は日本のあちこちで、この分野の会社が急成長をしておりました。近年のIT産業のようなもので、大きな可能性のある業界。時代の波に乗った訳であります。

広大な原木の宝庫『ブラジル』、父は当初本気でブラジルに行こうとしていたそうなのです。「お願いだから、せめて日本国内で就職してくれ。」と祖母に泣きつかれ、父はブラジル行きを諦め、国内の原木の産地『北海道』に渡ってまいりました。彼がブラジル行きを強行していたならば、私は生まれておりませんでした。父の選択に感謝しております(笑)。

私は、東京の祖父母には幼少の頃に一度しか会った事が無く、残念ながら記憶が全くございません。これらの話は父本人や母、今も健在の父の姉弟達から聞いた話でございます。敗戦後の混沌とした時代とは言え、立派な人だと素直に尊敬しております。

そうこうして父は、北海道の大きな木材会社に『会社の将来を背負って立つ人間』として華々しく迎えられました。異常なまでの歓迎を受け、全てが特別な待遇だったようであります。世にはまだ大学出なんて少ない時代、努力して勉強した甲斐があったというものです。努力が報われるというのは良い時代の証拠であります。

父に限らず、この時代に大学を出た方々の多くは、志というものを持っていた気がいたします。そこら辺を勘違いして、「良い大学を出れば将来安泰」なんて中途半端な眼差しで見ていた連中が、昨今の間違った学歴社会を生んだのだと考えております。人としての志が低ければ、どんなに良い大学を出た者でもクズであります。このくだらない勘違いが、現代の殺伐とした社会の元凶だと思うのです。

話が横道に反れてしまいました・・・(汗)。
父の就職した会社は、今考えるととんでもない規模の大きさでした。私が生まれる前の会社の運動会の写真を見て、とても驚きました。なんと千人以上の社員とその家族が参加する『大運動会』であります。立派な大会社、良い所に勤めていたようです。当時は娯楽が少なかった所為か、はたまた人と人の結びつきが強かった所為か、運動会の写真は誰もがとても楽しそうに見えます。どの家族も心からの笑顔であります。本当に全員が楽しそう・・・。

良き時代のワンシーン、そんな写真でした。サッチモの『ワンダフル・ワールド』のメロディーが耳の奥に流れてきそうです。昔はある程度の規模の会社では、必ず運動会や色々とレクリエーション的なイベントがあったようです。今でもこんな、社員や家族同士の絆を深めるイベントを催す会社は存在するのでしょうか。もし在るのであれば、立派な会社だと思います。過去に置き忘れてきた人間同士の本当の笑顔を、父の写真は教えてくれたような気がしました。

今になって考えると、その頃が木材業界の黄金期だったのであります。コンクリート建築の技術向上、高度経済成長、オイルショックを経て、木材業界は急激に衰退していく事になります。私が幼稚園児の頃には、大運動会も既にありませんでした。

私は、父が35歳の時に生まれた子供。小学校に上がる頃には、父は40を過ぎておりました。父はかなりのポジションにいたそうですが、一大決心の後に転身を図ります。自ら家具販売の会社を興したのであります。木材関連で多少のコネを持っていたようです。

口下手な男でしたので、随分と思い切った行動に出たものであります(汗)。それでも、市の中心部に在る当時では大きなデパートの『長崎屋』に商品を納入していたと言うのですから、大したもんだと思います。なんとか上手くやっていた様なのですが、それも長くは続きませんでした。

父の会社は、順調でした。朝早くにバスで出勤し、夜も遅くまで働いておりました。でも、おそらくやり甲斐があったのでしょう。表情はいつも明るかったのを覚えております。ですが、私が小学校4年生の時に、父の会社は倒産します。以前いた木材会社の部下の連帯保証人になっていたのです。その額、ざっと1500万!

努力と苦労はしていたものの、これまで人に騙された事が無く、人を疑う事など知らない人でした。母にも相談無く、安易に保証人を引き受けてしまったようであります。突然、実家に事務所用の机やロッカーなどがワンサカ運ばれてきました。きっと、事務所を撤退した時の荷物だったのでしょう。私は、大人用の大きな事務椅子に乗ってはしゃいでおりました。

小学生の私は、この頃の父の仕事やここら辺の事情をよく知りませんでした。話の全容を知ったのは私が大人になってからの事です。4歳上の兄は把握していたかも知れませんが・・・。この時期、ちょいちょい夫婦喧嘩がありました。私達兄弟の前ではやりませんでしたが、子供ながらにこっそり様子をうかがっていると、泣いている母に父が何かを怒鳴っている・・・そんな感じだったと思います。

そんな苦境の中でも両親は、私達に不自由をさせませんでした。母方の祖父母の多大な協力も当然あったように思います。この頃から、両親共働きになりました。二人とも実に良く働きました。父は以前の会社の重役さんの計らいで、請け負いで内装工事の仕事を始めました。請け負いですから、やればやった分だけ稼ぐ事ができます。母はパートで近所の表具屋さんで働きました。私達兄弟の面倒は祖父母が看てくれました。

大人になって知った事とは言え、あの苦しい時に「アディダスのジャージを買ってくれ!」だの「サッカー少年団に入りたい!」だのと馬鹿なわがままばかり言ってしまいました。本当に馬鹿なクソガキだった自分を今でも恨めしく思います。そんな糞馬鹿のわがままを、両親は叶えてくれました・・・。

そんな家計の状況や暖かい親心も解からずに、中学校に進学した私は不良の道に進んで行きます。連日の学校や警察からの呼び出し・・・、入学からたったの1年で父の髪は真っ白になってしまいました。人に騙され大きな借金を背負わされ、自分のやりたい事など何一つせずに家族のために黙々と働き、それなのに息子は訳もわからずにグレていく・・・。

あの頃の父はどんな気持ちだったのでしょう・・・。どれほど悲しかったのでしょう・・・。それを想うと、己の馬鹿さ加減に涙が止まらなくなります。

中学時代に、一度だけ本気でブン殴られた事がございます。家出してフラフラと煙草を吸って歩いているところを警察に捕まった時です。警察署まで引取りに来てくれて、家に帰ってから思い切りヤラれました(汗)。人なんて殴った事が無い人だったので、手加減ちゅうもんを知らず、エラい目に遭いました。

私がいくらケンカ坊主だと言っても、なんせ小学校から上がったばかりのチビですからね。敵う訳がありません(汗)。あの時も、父は涙を流しながら私を殴っておりました・・・。この頃、父は涙もろくなっていて、よく風呂で一人すすり泣いていたそうです。これも大人になってから、母に聞いた話であります。

折りしもTVでは『積み木くずし』などの不良もののドラマが流行していた時期です。きっと悲しい気持ちで観ていた事でしょう。

この後も、中学時代には些細なトラブルが続きました。酒・タバコ・シンナー、街での喧嘩やカツアゲ、何度も補導こそされましたが大事にもならず、鑑別所や少年院に入る事はございませんでした。両親や祖父母には気の休まる暇など無かったと思います。まぁ、祖父だけはちょっと違う感覚だったのですが、それはまた別な機会に・・・。

ロクでもない事を繰り返してはおりましたが、何とか高校には進学する事ができました。これは父の希望でもあったので、進学して良かったと思っております。ただ、入学当初はかなりキツかったですね。そこそこ真面目な学校に受かってしまったので、悪い奴が居ないのです。一人だけ毛色が違うようで、いつも浮いておりました。

中学の頃に通り一遍やる事はやってしまった所為なのか、この頃の私は何故か落ち着いておりました。タバコを吸いながら歩いている同級生を見ると、「もう中学生じゃないんだから格好悪いぞ。」なんて変に大人びた発言をしておりました。まぁ、ガキの勘違いって奴ですね(照)。

自転車やバイクを盗んでは金に換えたり、街に出てカツアゲなども一切しなくなりました。それらの行為が、急に格好悪く思えてしまったのです。そんな事はガキのする事だよ・・・的な感覚でした(笑)。悪い事は早い内に一通りやってしまった方が良いのかもしれませんね。

そんな訳で高校に入ってからは、バイトをするようになりました。タバコもやめ、警察沙汰も殆どなくなりました。違う区にある空手の道場にも通うようになり、外で喧嘩をする事もありません。態度の悪さと、ガラの悪さは変わりませんでしたが・・・。父にとっては平穏な良い時期だった事でしょう。

高校半ばに繁華街でバイトをするようになりました。夕方から朝方まで仕事をして、学校では殆ど寝ておりました。父は呆れておりましたが、面倒事を起こさなくなった私に何かを言う事はありませんでした。高校卒業と同時に家を出るまで、この平穏な日々は続いたのであります。

先週、今年初の墓参りに行ってきました。
我が家の墓には、祖父と父が眠っております。
墓参りと言うと少し大袈裟に聞こえますが、市内から30分程度の近場であります。冬は霊園自体が雪に覆われてしまう為サボっておりますが、毎年4月からは月に一度は酒を供えに行っております。雪が融けだすこのシーズン、丁度良い事に4月11日は亡き父の誕生日なのです。

珍しく天気の良いうららかな昼下がりでした。冬前にしまっておいた墓参りセットを引っ張り出し、颯爽とドライブ気分で家を出ました。ちょっと不謹慎ですね(汗)。5ヶ月ぶりに来た霊園、またデカくなっておりました・・・。しかも、入り口の所にまた大きな本堂らしき建物が建っております。超ゴージャス・・・。

年々と言うか、毎月のように立派になっていきます。あんまりこの手の話はしたくないのですが、どうなんでしょう墓場ビジネス・・・。確かに墓場は必要ですし、環境が良いにこした事はありません。吹きっさらしのゴミだらけの墓場だと、先人達に申し訳ない気持ちになってしまいます。しかし、行く度にきらびやかになっていくのも考えものです。

しょっちゅう行っている私がこんな印象を受けるのですから、何年かぶりに行った人はとても驚く事でしょう。敷地もどんどんと広がって、自分の家の墓もわかり辛くなっております。近い内にきっと地図が必要になります。間違って違う墓場に来たんじゃないか・・・と思う方もいるはずです(汗)。

この霊園、市内から近いためにちょっとお高いのであります。だからと言って、派手でゴージャスにするのは、正直いかがなもんかなぁと思うのです。先人達が静かに眠る場所、閑静で厳かな場所である筈なのです。真っ赤でド派手なお堂を建てて・・・、竜宮城じゃねぇんだから・・・(汗)。

人は、必ず死ぬものであります。亡くなった者を埋葬し、墓を大切にする気持ちは、日本人の良いところだと思っております。世界には墓など無い国もたくさんあるのです。墓を大切に思うが故にきらびやかになっていく、そんな敬意の表れならば文句は無いのです。残念な事に、あの霊園からは銭の匂いしか感じられないのです。

避けては通れない人の死を、ただの商売としか見ていない気がしてしまうのです。これは昨今のクソ坊主共や葬儀屋連中にも感じる事です。人様の死で銭儲けをしようだなんてあり得ません。情けない事です。

実は、こんな事を思うのも最近の話では無いのです。
4年ほど前の出来事です。
祖父と父の墓には、2箇所小さな植木用のスペースがございます。そこに何か植えてやろうと思い、昔から仲の良い造園屋に相談いたしました。造園屋の棟梁の勧めで『エゾツツジ』という小さな木を植えることになりました。花を付け、葉も赤くなる可愛い植物です。

当時、仕事が忙しく現場に立ち会えなかった私は、細かく墓の所在を地図に書き、棟梁に植え込みをお任せしたのです。約束の日に、現場に着いた棟梁から電話が入りました。霊園の管理者が、植え込み作業にストップをかけたと言うのです。管理者に電話を代わってもらい事情を聞くと、霊園が契約している指定業者以外は木を植えてはいけないとの事でした。

私は、激怒しました。
私の愛する祖父と父の墓であります。この人に植えて欲しいなぁ、と思い棟梁にお願いしたのであります。棟梁も私の事を思い、考えて植木を選んでくれました。
指定業者だぁ?

大至急、霊園に向かいました。あまりにも頭に来過ぎて、どんな運転をしたか覚えていません。30分かかる距離なのに、10分もかかりませんでした。まず管理者を怒鳴りつけ、霊園の社長に電話を繋ぐように命令しました。規則がどうの、それはできないだのと御託を並べるので、私にしては珍しく思い切り名乗ってやりました。

「社長連れて来ねぇなら徹底的に構えるぞコラ!」
堅気を相手にあそこまで本気で怒った事はそうありません。管理者は大至急社長に連絡を取り、社長も大慌てで現地にやってきました。その霊園では、墓石も指定業者、造園も指定業者、何から何まで指定業者で固まっていたのです。こうなると一つの利権であります。

社長は来るなりひたすら謝っておりました。クソ野郎です。私の言い分は全て通り、無事棟梁に木を植えていただきました。後ほど改めてお詫びに伺うと言う社長の申し出を断って、霊園を後にしました。些細な事と言われるかもしれませんが、私にとっては大切な事なのです。

もし、自分で木を植えようとしていたらどうでしょう。
「こらこら、勝手に木を植えちゃいかんよ。どうしても植えたかったら金を払って、ウチの業者を使いなさい。それなら植えさせてやっても良いよ。」と言われているのと一緒なのです。自分の愛する家族の墓に、しかも購入した土地にです。イカれてるにも程があるってもんです。

墓や葬式、人の死で銭儲けをしようだなんて、絶対に間違っています。そんな分別もつかない人間が増えている事を、とても悲しく思います。ゴージャスに変化していく霊園を見て、そんな事を考えてしまいました。

墓を売っている人間が、一番墓に対して敬意が足りない・・・そう思います。


墓を洗って、花をそなえ、父の分と祖父の分、ビールを2本墓のまわりに撒きました。手を合わせて「ちんどん屋みたいな墓場になってきたけどゴメンなぁ・・・」と、心の中で謝ってまいりました。

私が育った地元は、市の中心部から約4キロ離れた住宅地であります。今でこそ隙間無く住宅やマンションが建っておりますが、私が子供の頃はまだ空き地や畑がとても多かったと記憶しています。今になり考えると25~30年前、ちょうど良い具合に田舎と都会が入り混じり、子供達にとってはパラダイスだったような気がいたします。

私が子供の頃は、まだテレビゲームが一般家庭には普及しておりませんでした。任天堂のゲームウォッチが発売されたのが小学6年生だったと思います。子供達の遊びの大部分が『外』であります。人生ゲームや野球盤も有るには有ったのですが、可能な限り屋外で遊んでおりました。

いろんな遊びが有りました。各種鬼ごっこ、ハンドベース、めんこ、仇(かたき・・・ドッヂボールの個人戦みたいなもの)、陣取り・・・etc、女の子たちはゴム飛びなんかをよくやっておりました。野球やサッカーは大人数が必要になるので、あまりやらなかったと思います。私は虫取りが特に好きで、毎年キリギリスを鬼のように捕って飼育していました。

男子たる者、当然のようにヤンチャな遊びも一通りこなしておりました。爆竹や癇癪玉のような火薬系、パチンコ等の狙撃系、庭や畑に生っている果物等を盗むルパン系、秘密基地の建設を主とするサティアン系・・・etc、大体は褒められたもんじゃありません(笑)。

今よりも車通りが圧倒的に少なく、道路で遊ぶ事も普通でした。学校からチョークを盗んできては道路に落書きをしておりました。私達が遊ぶ道路は、至る所にバドミントンやドッヂボールのラインが書いてあったり、様々な遊び目的の線が引いてあったものです。
今は殆ど見かけませんね。

公園、道路、空き地が主な戦場なのですが、どこで遊んでいても必ず大人の目が光っておりました。人様の迷惑になるような遊びをしていると、必ずどこかの爺さんが大至急飛んできたものであります。
遠くの方から「コラぁぁぁ~っ!」と叫びながら・・・(笑)。
今と比べれば人口もかなり少ない筈なのに、悪い事をしていると必ず見つかって追いかけられていた気がします(汗)。

畑の農作物には全く興味が無いのですが、人様の庭に有る木の実系のものには随分と興味をそそられました。くるみ、栗、柿、梨、緑のプラムみたいな奴、桑の実・・・etc。私共の地元の柿や梨は、食べられるような物は育ちません。柿なんて食ったら大変な事になります。何も知らない私達は、盗んだ柿を口にして1週間位味が分らなくなった事がございます・・・(汗)。食えない事が判っても盗み続けるのが子供というものであります(笑)。


小学校の近所で、庭に大きな栗の木を持つ家がありました。夏休み中の或る暑い日に、悪ガキ3人でその栗を盗みに行ったのです。長い木の棒を持って行き、先ずはイガ栗を落とす訳ですが、ほんの数個を落とした時点でその家の爺さんに見つかってしまいました。
「コラぁぁぁ~!」\(`o'")
(゜ロ゜)ゲッ!

大至急逃げました。しかし、必ずドジな奴がいて一人位は捕まってしまうものです。一度は逃げ切った私ともう一人は、仕方なく渋々と爺さんの元に自首いたしました。戻ると最初に捕まった阿呆は、既に一発ゲンコツを頂いておりました。私達も同様に一発ずつ貰い、その後お決まりのありがたい説教を聞かされました。

ゲンコツをくらった後に「ここでちょっと待ってろ!」と爺さんは家の中に入りました。
戻ってきた爺さんの手には小さなナイフが・・・(汗)。
\(-_☆)キラーン
(--;)ォィォィ・・・

「お前らは馬鹿か!こんな青いイガ栗を盗んでどうするつもりだ?いいか、ちょっと見てろ!」と言って、持っていた小さなナイフでイガ栗を器用に割って見せました。中の栗は、まだ白っぽくてペラペラな感じで全くもって未成熟でした。
「いいか!イガが茶色くなって勝手に落ちてきたら、食べられる栗が入ってるんだぞ!あと1ヶ月も先だ、馬鹿者が。そうなったら家のピンポン押して、堂々と拾いに来い。わかったか!」
「ハイっ!」
それ以来、私達はその爺さんに会うと必ず挨拶をするようになりました。

そして、約束どおり1ヵ月後・・・。
私達がピンポンを押すと笑顔で庭に迎え入れてくれ、皆で拾った栗を剥いてすぐに茹でてくれました。北海道の栗は、小さくて食べるところも少なく正直美味いものではありません。
その爺さんも初めて食べたと笑っておりました・・・(汗)。
しかしその栗・・・、味はイマイチでしたが実に美味く感じました。
本当に美味かった・・・。

家でも学校でも感動を伝えるべく、その話をしきりにしておりました。堪(たま)りかねた同級生達が、何組かその家を訪ねる事になりました。爺さんは、その都度ガキ共を温かく迎え入れ栗を振舞ってくれたそうです。実は子供好きの優しい爺さんだったのです。

今は爺さんの家も無くなり、そこには大きなマンションが建っております。


昔は良かった・・・。
誰でも年を重ねると、そんな懐古の念が沸いてくるのかもしれません。今の子供達も大人になって、きっと私と同じ台詞を吐く事でしょう(笑)。しかし、私が子供の頃にはこんな爺さんがまだ彼方此方(あちこち)にいらっしゃったのであります。子供達に愛情があるからこそ、叱ったり怒鳴ったりしながら躾(しつけ)をしてくれたのだと思うのです。

今は、どうなのでしょう。
他人の子だから・・・、と無関心な世の中になってしまった気がいたします。頑固親父が近所にたくさん居て、子供達の行動に目を光らせていたからこそ変質者だのイジメだのという問題が起こりづらかったのではないでしょうか。それが全てでは無いと思いますが、要因の一つではあると思うのです。

他人の子であっても『悪いものは悪い!』ゲンコツの一つもくれてやりましょう!それがガキ共のためにもなる訳であります。
そして、自分のためにもなる筈であります。


頑固親父・・・、すっかり見なくなってしまいました。


ギリギリ良い時代を過ごせた事に感謝しております。(^^ゞ

前回からの続きであります・・・。

フラフラと仕事もしていない訳ですから、どんどん手持ちの金が減っていきます。そんな折、ウェイター時代から顔見知りでそこそこ仲良くしていたヤクザのKさん(29歳)から良い話が舞い込みました。
「一緒に店をやらんか?」
投資は2:8で先方が8、上がりも2:8で先方が2。
「本当にそんな条件で良いならやりますわ♪」ほぼ即答でした。
私の他に男の従業員を2人雇い、仕事帰りのホステスのアフター先のような店を計画しておりました。

打ち合わせやら、顔合わせやらでちょいちょい集まっては皆で呑んでおりました。そこに「俺の兄弟分紹介するわ~!」と言ってKさんが連れて来たのが、なんと喧嘩を収めてくれたアノ怖い人だったのです。
「あの時は、すんませんでした・・・(照)」
「おぉ~!あのとんでもないガキかぁ(笑)!」
意外な再会でしたが、その時は気マズさが先行してあまり嬉しいとは思えませんでした(笑)。

かくしてこの怖い人は、店がオープンしてからも毎日のように通ってくれるようになったのですが、どうも私とはぎこちない関係が続きました。後に本人から聞いたのですが、人生を悟りきったようなイケ好かないガキだと思っていたそうです。その内、ブン殴ってやろうとも思っていたらしいです。ふ~~、危ない危ない・・・(汗)。

無事にオープンしたこの頃から、景気に陰りが見え始めました。ホステスや黒服連中からも給料不払いの相談をよくされるようになりました。Kさんの存在を知る客からは、回収の依頼も受けるようになったのです。『切り取り』は通常『取り半』であります。そんな率の良い仕事を私本人がやらない訳がございません。だって、給料を払わせるだけでその半分を貰えるのですから。Kさんには報告せず、勝手に取り立てを始めるようになりました。

無鉄砲な私には債権回収が向いていたらしく、何件も順調に上手く回収できたのです。私の歩く道には銭が付いてまわるんだなぁ、なんて馬鹿な事を思っておりました。それもつかの間、とあるクラブに取り立てに行った時、ケツ持ちが裏に待機していてまたもやグルッと囲まれてしまいました。
こんな話ばっかりですね・・・(汗)。

何か危険な事があったら自分の名前を出すように、と普段からKさんに言われておりました。しかし、実は私・・・ヤクザが大っ嫌いでした(笑)。Kさん個人は好きだったのですが、ヤクザ自体にはかなりの拒否反応を顕にしておりました。ですから、例え痛い目に遭ってもKさんの名前を出すつもりは毛頭無かったのであります。

偉そうなデブのオッサンが私の前にドカッと座りました。
「どこの若い衆よ?」
「ああ?堅気だコノヤロー!給料払えや!」(-。-)y-~~~~
周りの若い者達は既に皆殺気立っております。
「何だその態度は?殺すぞこのガキ!」
「いいからとっとと払えや!」(-。-)y-~~~~
・・・グッチャグチャのボッコボコにされました(汗)。

顔なんて見れたものでは無かったのですが、店を休むのが悔しかったのでその面で出勤してやりました。いつも通り遅い時間に例の怖い人がやって来て、ニタニタしながら訊いてきました。
「なしたのよ?その面(笑)♪」
「実はこんな事がありまして・・・(照)」
ざぁっと事情を掻い摘んで説明いたしました。
死ぬほど爆笑されました・・・(汗)。

「馬鹿だなぁお前、とっとと帰ってくりゃいいのに♪なんですぐに退かなかったのよ?」
「はぁ、取ってくるって約束したんで・・・」
「はははっ!大した馬鹿だ!(爆)」
馬鹿だと言って人の顔を見ては爆笑し、何分かおきにそれを繰り返しておりました。本当に嫌なオッサンです(怒)。あまりにもしつこく笑われるので、何だか私も可笑しくなってきました。笑いながらも酒を呑んでいますので、顔の腫れは一層酷くなりました・・・(T_T)。

朝方になり従業員を帰し、この人と二人きりになった時です。
「お前、俺と兄弟にならんか?」
(えっ?はぁ~?)・・・ビックリであります。( ̄□ ̄;)!
私は正直この人に憧れていましたが、てっきり嫌われているものだとばかり思っていました。しかし、「このクソガキがっ!」と言いつつも毎日のように顔を出してくれていたのも事実です。実は結構気にしていてくれたようなのです。
とても嬉しかったのを覚えております。

「お願いしますっ!」・・・ほぼ即答でした。
誰もいない店のカウンターで、中身が何だかも覚えていないような安焼酎で乾杯いたしました。私達の兄弟盃です。ひとまわり歳が違い、本来であれば親と子の盃でもおかしくはないのに破格の舎弟で迎えてくれました。
そう、この怖くて格好良いオッサンが私の唯一人の兄貴分でございます。未だに気合いの入った恐ろしい男であります(汗)。

決してヤクザに憧れていた訳ではございません。
むしろ嫌いでしたから・・・。
ただ、この人との出会いだけでこの世界に入る事になりました。


今でも、このオッサンが大好きであります(笑)。


バブルが崩壊し始め、日本中で小さな抗争が頻繁に起こっておりました。私達の街もその例外では無く、発砲事件が頻発しておりました。


時代が急激に動いていた、そんな時期の思い出話であります。

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プロフィール
HN:
神谷 仁
性別:
男性
自己紹介:
生息地:北国の繁華街
趣 味:釣り・料理
好 物:寿司・そば
口 癖:生き様が悪りぃ
 敵 :嘘つき・警察
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