最近TVの『ニュース』番組に異様な違和感・不快感を感じます。随分前から感じてはいたのですが最近のは特にひどい…(--〆)。私共に批判されるのは彼らTV関係者も心外かもしれませんがひどい物はひどい訳であります。
例を出しますと先日まで毎日朝から晩まで放送されていた『徳山高専殺人事件』二十歳の可愛い女学生が学校内で殺されてしまった悲しい事件です。非常に痛ましい事件でした。連日の放送では事件当日の被害者のタイムテーブルや、生前のピアノの発表会の映像、数々のイベントでの画像、友人・知人たちのコメント…etc。見出しの文字やBGM…まるでサスペンスドラマのように各局が競っての報道でした。本当に発表しなければいけない事でしょうか?犯人探しは警察の仕事であって、視聴者全員で推理・推測をする必要はないでしょう。前途ある若者が一人殺されているんです、その凄惨な事実を淡々と放送する事が『報道』であると考えます。
まるで視聴者の興味をあおるかの様なドラマチックな数々の演出は被害者に対する冒涜以外の何ものでもないと感じるのです。無理矢理に神妙な顔をしてこういった事件を報道し、5分後には『次は明るいニュースです!』と満面の笑顔で『迷子アザラシ』かなんかのニュースを読む。製作者サイドの指示ではあるのでしょうが、「お前らの人間性はどうなんだ?」正直そう感じてしまうのです。
皆様はこういった事を感じた事はありませんでしょうか?
TVという物は本来もの凄い『力』をも持っているのです。TVで紹介された職人を見て思い切って転職をした人達、献身的活動に感動し生涯ボランティアに身を投じた人達、様々な人々の人生に影響を与える『力』を持っているのです。『力』を持った者はそれを正しく使わなければなりません、これは絶対なのです。何故かというと『力』には必ず同じだけの『負の部分』があるのです。TVが間違ったものを放送してしまえば『大量の負のエネルギー』が流出してしまうのです。バラエティ番組で熱いオデンを他人の口にねじ込めば、子供たちもコンビニでオデンを買って同じ事をするんです。ドラッグをやっている若者を格好良く放送すれば、ジャンキーが増える訳です。子が親を殺した事件の報道の仕方を間違えれば、日本中で同様の事件が多発してしまうのです。
TVについての思いはこれかも折に触れ語っていこうと思います。
正直私共が世を憂うのもいかがなものかとは思うのですが、どうしてもこの『現状』を憂うしだいであります。私も今現在若干の『力』を得た訳ですが、逆に『自由』がなくなったという事を痛感いたします。私も非合法な世界に身を置きながらも若い者達に『非道・外道』は絶対に許さないといったメッセージを伝え続けなければなりません。これは『力』を持った者の一番大切な義務であります。
『力』を得ればひょうひょうと自由になれる、そんな私の考えはスタートから間違っていたのですね…。