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雲のように飄々と…月のように夜道を照らし…
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近頃いろいろな方からメールをいただくようになりました。こんなブログではございますがご訪問ありがとうございますm(__)m。できればコメント欄にも是非忌憚のないご意見を書き込んでいただければと思っております。
前回の記事に対してご意見をいただきましたので、この場でお答えいたします。
喧嘩の時に「殺すぞコラ!」と言ってしまったらやはり本当に殺すんですか?
断じて殺しません。そんな事をする訳がありません(笑)。面白かったので掲載させていただきました。
その他には賛成・同意のご意見をいただきました。
私の言いたかった事は正しく伝わっているのかな?とふと思ってしまいました。『吐いた唾を飲まない』事が恰好良いというよりは『余計な唾を吐かない』方がむしろ良いと私は考えております。その上で口から出してしまった言葉は引っ込めない覚悟が必要であると・・・。
『吐いた唾を飲まない』という行動は一見恰好もよく、人として一本通ったものを感じます。ですが結構ひどい目にも遭うものなのです。今回はその事を補足させていただきます。
もう4~5年前の事になりますが、私が一人でたまに顔を出すスナックでのお話です。何の脈絡もなく泥酔したチンピラに絡まれたのであります。おそらく態度の大きい私を見て急に面白くなくなったのでしょう、なんせ泥酔状態でしたから。店の従業員は皆真っ青、私の事を良く知っていますからね。その当時はまだ私も酒を呑んでいた頃で軽く酔っておりました。見たこともない小僧でしたので相手にする気は毛頭無く「何か納得がいかない事があるのなら上の者を連れていつでも来なさい。なんぼでも相手をしてやる。」的な事を吐き捨てたのであります。従業員と数名の客による必死の制止で、彼は外に連れ出されました。
そんな事を意に介さず一時間程その店で呑んでおりましたら、先程の小僧の仲間が来るわ来るわ・・・小僧の他に8人もおりました。見たことの無い顔ばかりで不思議に思っていましたら、50歳近い一番偉そうなおっさんが名乗ってまいりました。高速道路を使って一時間半位の地方の団体だったのです、見た事が無い訳であります。車を飛ばして大至急駆けつけたのでしょう。とりあえず店の外に出たのですが、運悪い事にこのビルの構造は特殊で1階から9階まで真ん中部分が大きく吹き抜けになっていて他の階からも丸見えなのです。
手にはナイフや木刀を持った者まで居るし、いくら吐いた唾とは言え正直「こりゃあ殺されるな・・・」と思いました。中程の階でモメたもので上から下から大ギャラリーを背負った状況であります。元々いわれの無い理由とは言えもう下がる訳にもいかず「面倒くせぇからまとめてかかって来い!」と言うしかございませんでした。先程の一番偉そうなおっさんが従業員から事の顛末を一部始終説明を受けたらしく、慌てて止めに入ってまいりました。そして自分の若い者の非礼を深く詫び撤退してくれたのです。
次の日わかった事ですが、お互いの社長同士が兄弟分だったらしく、後日改めてお詫びに来ていただきました。私もうちの社長から軽くお叱りを受けました(笑)。
危機一髪、これはたまたま助かったというだけの話でございます。間違ったら本当に死んでいた事でしょう。たかだかくだらない喧嘩で死んでも誰も褒めてはくれません。それこそ恰好悪い話でございます。恰好悪いのを通り越して無様でございます。
他にもお互い出した言葉を引っ込められず意地の張り合いになり「もう殴り合いで決めようや!」という話になり、1対1の勝負でガッチリ負けた事もございます(汗)。吐いた唾は飲まなかった訳ですが、これもまた恰好が悪い(笑)。翌朝、自分の顔を鏡で見て大笑いいたしました。
しつこくなりますが『吐いた唾を飲む』これは最悪、それよりは『吐いた唾を飲まない』事の方が格段に素晴らしい。
しかし『吐いた唾を飲まない』事よりも『唾を吐かない』事のほうが大事だと思う訳であります。
わかり辛くなってしまいました・・・。
皆様、くれぐれも私の真似はなさいませんように・・・。
『吐いた唾を飲む』という言葉がございます。
これは一度やると言った事を、発言を撤回しやらずに逃げるという意味でございます。私はこの行為が死ぬほど大嫌いなのであります。【吐いた唾は絶対に飲まない】私が意地でも守らなければならない最重要のルールでございます。
『吐いた唾を飲む』事の何が悪いのかと言いますと、なんせかんせ恰好が悪い。生き様が悪い事この上ない訳であります。
これは私共の稼業だけではなく、男女を問わず人間社会全般に関わる事だと思っております。
解りやすい例えを出すと「君と一緒にいれればそれでいい」とか言って付き合い出した男女が一ヶ月もしない内に「こんな髪型・服装にして欲しい」「あんな料理を覚えて欲しい」だのと、ああだこうだと言い始める。最初の話と違うだろ、こういった些細な事も立派に『吐いた唾を飲む』行為であります。「この仕事を一生頑張って一人前に・・・」なんて大騒ぎして人様に弟子入りし、たったの数年で「やっぱり自分に向いていなかった・・・」みたいな事を言い出す。よくある事ではあるのでしょうが、ほんのりイラッといたします。
これらを解決するのは簡単な話でございます。最初から調子に乗って能書きを垂れなきゃあ、誰も腹が立たないのであります。己の身の丈をわきまえもせず、何もして見せない内から「好印象を与えよう」とか、たいして根性もないのに「決意を周囲にアピールしよう」なんて余計な事をするからおかしな事になるのです。
はったりで自分を飾っても大概後でロクな目には遭わないものでございます。「俺はケンカがつよいぞ!」「金を持ってるぞ!」などとぬかしておいて、喧嘩は弱いわ借金は有るわ・・・となったら恰好が悪くて恥ずかしくて生きていられません。余計な事さえ言わなきゃあ恥ずかしい目に遭うこともない筈なのですが、必要以上に自分を大きく見せようという人間は少なくないのであります。
政治家なんぞときたら、こんな物ぁ日常茶飯事でございます。ホストクラブよりもまだ始末が悪い。
私の近所にも、しようもない議員がのうのうと暮らしております。自民党から新進党に乗り換えて、詫びを入れて再び自民党に戻り、反小泉の勢力に回り落選し、前回の選挙では「小泉政治の集大成!郵政民営化のためによろしくお願いします!」なぁんてほざいて回っておりました。プライドも男気もあったもんじゃぁありません。あんな腐った者でも当選すれば先生様でございます(笑)。
少し横道に反れますが、私は小泉首相(元)が好きでございました。政策の良い・悪いは知った事ではありませんが、あの頑なさは見ていて気分が良いのであります。ああいった人間が信念を持って政をするのであれば多少の間違いがあってもいたしかたないという気にまでなってしまいします。吐いた唾を飲まない人間は多少のズレがあっても信頼されるものであります。
常に正直でフェアな人間になりたいと思っている訳でもないのでありますが、不必要に人様に笑われる人間にはなりたくないと常日頃思っております。
【吐いた唾を飲まない】安易な発言を控え、そして約束は守るという自分に対しての『縛り』であります。
はったり・虚言・軽口は自分の格をどこまでも下げる物だと思っております。
だって見破る人には、一発で見破られてしまう訳ですから(笑)。
途方もなく大きなテーマでございます。
とても一度で表現できるものではありませんので、この先何十回にも分けて語らせていただきたいと思っております。
かなり以前にテレビで観たアフリカの小さな村のお話です。
30数人程の小さな村で、牛飼いを生業として暮らしているのです。電気・水道はもちろん無く、文字も教育も無いようです。遊んでいる男の子に将来の夢を聞くと「村の大人のような良い牛飼い」と答えました。女の子に同じ質問をすると「立派な牛飼いの嫁」と。その村では職業は『牛飼い』しか無く、女の子は近隣の村に嫁に行く、これ以外に選択肢は無いのです。近隣の村も皆同じ状況で点在し一つのコミュニティーを形成しているようであります。
今度は大人達に「自分の人生は幸せだと思いますか?」と質問したのです。なんと全員が迷わず「とても幸せです」と答えたのです。インタビュアーは「都会に興味は?」「他の職業に興味は?」「文明に興味は?」と色々な質問を続けました。「子供の頃から村を出たいと考えた事も無ければ、牛飼い以外の職に興味を持った事も無い。一匹でも多く牛を飼える立派な牛飼いになりたくて頑張ってきた。良い家族・良い友人に囲まれて、この上なく幸せだ。これ以上何が必要なんだ?」と逆に問うておりました。皆一同に、生まれ変わってもまたここでくらしたいと話しておりました。
彼らの考えを知らないで、映像だけを放送したら皆さんはどう思うのでしょう?あんな不便な暮らしでつらいだろう、学校にも行けず外の世界を知らないなんてかわいそう、なんて物の見方をしてしまうのでしょうね。
彼らは私達の知りえない『本当の幸せ』を知っているのです。それは彼らの持つ情報量が少ないせいなのかも知れません。ですがその『幸せ』の純度の高さは羨望に値すると思うのです。「生まれ変わってもまたここでこの人生を!」なんて素晴らしい台詞でしょう。ドラマでも映画でもない実在の人々の口から出た台詞でございます。
人それぞれ『幸せ』に対する価値観も違うし、明確な答えもあるとは思っておりません。ですが日々探さずにはいられません。
『幸せ』この世に生を受けた以上、誰もが求めてやまないものであります。
私はこの国に生まれた事をとても幸運に思っております。美しい海と山、それぞれに味のある四つの季節、実に素晴らしい!美しい自然だけではありません。水道を捻れば普通に水が出て、夜は田舎ですら街灯が灯る。どこまでも舗装された道路、もはや全土を制覇した携帯電話。一年中手に入る季節を無視した野菜・果物、世界各国の様々な食材。これほどの国は世界中で『日本』ただ一つでございます。
敗戦の後、祖父や父の世代の方々の一心不乱の頑張りで今日の繁栄があるのです。
我らが大先輩達の時代はとにもかくにも『物』が無かった訳であります。家族や大切な人の為『物』を与える事からのスタートです。冷蔵庫・洗濯機・テレビ、当時は1ヶ月の給料の何倍もしたようであります。【テレビが我が家にやって来た!】この体験をした方々は誰もが未だにその嬉々とした感動をまるで昨日あった事のように話してくれます。今、どんな事をすれば家族や大切な人に『何十年も色あせることのない感動』を与える事ができるのでしょう。
そこまで家族が喜んでくれるのなら、世のお父さん達も頑張り甲斐があるというものです。家族は父を素直に尊敬し、父はまた皆の喜ぶ顔を見たくてまたさらに頑張る。良い方向に歯車がかみ合った時代であると思います。物質的には今よりも不便かもしれませんが、お互いの尊敬・慈愛は何よりも心が満たされるものです。
今の時代、家庭に足りない物などほとんどありません。一家に一台車があっても普通でございます。家族や大切な人に何を与えれば良いのでしょう。ブランド?貴金属?プラズマテレビ?いいえ、そうじゃありません。大先輩たちは実は『物』を与えていた訳ではないのです。「お前らの喜ぶ顔を見れるなら、俺はどんな事でもするぞ!」という『愛』を与え続けていたのだと思います。
「俺は家族の為にこんなに仕事をしてるのに」「彼女の為にこんなに金を使ってるのに」、『のに』。
わかってない!全くわかってない!報道ステーションの古館伊知郎ぐらいわかってない!家族であれ彼女であれ「どんな事でもしてやろう」という本物の『愛』には、『のに』なんか付かないのです。
愛情というものは一方的に与えるものであります。男も女も「こんなに頑張ったのに、わかってくれない…」なんて愚痴を言っちゃあいけません。「あの人がわかってくれないから諦めてこっちの人にしました。」なんて、その程度のもんが相手に通じる訳がないのです。その気持ちが揺るぎのない『本物』であればいつか通じるのが人間てものです。通じなくてもしようがない、死ぬまで一人を想い続けて墓の中まで持って行きゃあ良いんです。それこそが『美しい人間』の姿であります。
家族に対しても然り親が本物の愛情を与え続ければ、子もまた人に対して愛情を与えられる良い人間に育つことでしょう。親の事を嫌っても良いじゃないですか。本当に愛情を与え続けたのであれば、きっと葬式のときには泣いてくれる事でしょう。
人に与え送り続けた『愛情』は往々にして自分に返ってこないかもしれません。ですが『本物の愛情』を受けた側もその大切さに気付き、そしてそれは連鎖をします。人様に『本物の心』をいただいて全く何も気付かない人間も中にはいるでしょう。そいつは本物の馬鹿です、構ってやってもしようがありません。
物に恵まれた今の時代、岩をも通す『本物の心』これこそが宝物だと思うのです。
私の地元は繁華街から東に車で15~20分程の住宅地であります。市営住宅や古いアパートが多く一昔前は低所得者層が一番多い所だったようでありますが、今では出世してご立派な住宅地。私の家は両親共働きではあったものの、ごくごく普通の何不自由ない中流家庭でございました。30年前当時、新しい造成地だったため今ほど家は無くガラーンとしたイメージが頭に残っております。
私はなかなか愛想が良く近所の方々に挨拶を欠かさない子供でした。お陰で近所の皆様には随分と可愛がっていただきました。やがて中学生になって服装もかなりガラが悪くなり、くわえタバコで歩くようになっても誰もが変わらず接してくれました。高校生位にもなると歩く先々で捕まっては世間話の相手をさせられておりました。庭いじりや家庭菜園の畑仕事の手を止めて声をかけてくれるのが嬉しくてついつい話を聞いてしまうのです。
「今年は天気が悪いから豆に実が入らない。」「そこからトウキビもいで持って帰りなさい。」「うちの子に勉強するように言ってくれ。」「近所で暴走族がうるさいから叱ってやってくれ。」とか、炎天下のビニールハウスの中で盆栽について2時間もうんちくを聞かされた事もあります。あの時ばかりは本当に死ぬかと思いました(汗)。ほどなく暴走族はうちの近所を通るときエンジンを切ってバイクを押して歩くようになりました(笑)。
最近は隙間無く家やマンションが建ち並びすっかりと変わってしまいました。ですがこの歳になった今でも実家の方に顔を出すと、昔からいるお年寄り達が声をかけてくれます。釣りの調子はどうだとか畑の野菜がどうだとか昔通りに、皆私の稼業を知ってはいるはずなのですが…。そんなお年寄りたちも年々一人減り二人減りと寂しいしだいでございます。
ありがたいものです。子供の頃から見守られているような…。
そろそろ住まいだけでも地元に戻ろうか…と思う今日この頃です。
今回は『警察』について触れてみようと思います。私共とは接点が多くお互いに嫌いあっておりますので、多少悪口調になるかもしれませんがどうかお許しいただきたい m(__)m
なぜ私が警察組織を毛嫌いするのかと言いますと、彼らが『正義』の看板を掲げているのがいかようにも面白くないのでございます。『市民を守る』冗談じゃありません!「ただ安定した職が欲しかっただけだろお前らは!」私は警察官と口論になると必ずこの台詞を吐き出します。本当に市民の生活を守りたいなんて思っているのは恐らく全体の2~3%といったところでしょう。もちろん私共も市民の生活を守ろうなんて思っている訳ではないのでお互い様なのでしょうけれども…。
私の街には【警察潜入24時】のようなテレビ特番で必ず登場する有名な交番がございます。人数も常に10人近く常駐している大きな交番です。彼らの受け持ちエリアは、約半径1km位の繁華街であります。たかだかその程度の範囲で仕事をしている癖に、街で彼らの名前を知っている人間は皆無なのです。どれだけ街の人間と疎遠なんだ、私の方が何十倍も有名でございます。この事一つ取りましても非常に不愉快極まりない。
ボサッと交番で全員待機しているのなら、せめて半分の人数でも街を歩けば良いのです。そして街の人達に声をかけ続け顔なじみになれば良いのです。常に警官がウロウロしていてしかも街のみんなと仲が良い、そんな状態なら悪さを働く輩もグッと減るというものです。
街を守るために最初っから事件など起こらない状態を作ろう、なんて気持ちは更々感じられません。通報があったら行かなきゃならん程度にしか考えていないのです。
テレビでストーカーの問題を取り上げておりました。警察に相談したが門前払いされ結局は殺されてしまったといった話でした、全国で同様のケースが何件もあるらしいですね。なぜ奴らはたかだかその程度の事を解決してやれないのでしょう?私なら即座に解決してやります、もちろんそんな事で報酬を求めたりはいたしません。もし金を取るならストーカー野郎からキッチリいただきます。
事件が起こってからじゃなければ動けないとかなんとか可笑しな講釈をたれては、泣きついてきた市民を無視し続ける…。警察云々の前に人としてどうなんだ?と思わない日はございません。もちろん良い警察官が少数いる事も重々承知しております。ですが『法律の下』に動いている組織がこの程度だと思うと腹が立ってしようがないのです。
私共は常日頃から大切な友人・知人がおかしな事に巻き込まれないよう目を光らせております。そういった事で世間様を威圧するのはいかがなものかなとも思いますが何かあってからでは遅いのです。特定少数の人間しか大切にしない私共はやはりロクなもんではないのでしょう。自分に関係の無い人間はある程度泣かせても構わないと考える事もある訳ですから…。
何が正解か未だに判りかねてはおりますが、警察のように正義の看板を掲げておいて税金で宴会をやるような人間にはなりたくないと思っております。
私共の暮らしの場『繁華街』では毎日金と仕事にまつわる話が飛び交っております。よくある話としては「貸した金を返してくれない」「ホステスが店からの給料を貰えない・遅れている」「客がツケを払わない」「仕事を辞めたいのに雇い主側の都合で辞めさせてもらえない」「仕事を紹介して欲しい」こんな感じでしょうか。
例えばホステスが店から給料を貰えないといったケースでは、まず労働基準局に行き相談をする事から始まります。そして相談員に内容証明(この場合は給料を支払えという公式な請求書のような物)の書き方を教えてもらいそれを送付します。店側が素直に応じてくれなければ次は基準局から指導が入ります。指導と言っても責任者を呼び出し「ちゃんと払わないと、法律の何条・何項に引っかかりますよ。」程度のソフトな指導です。それでも店側が応じなければ弁護士を介して民事裁判となりますが、大抵の場合その前に泣き寝入りしてしまいます。
公的機関というのは所詮こんなものであります。決して基準局の職員や裁判所を馬鹿にしている訳ではございません。基準局の職員がどんなに親身になって行動してくれたとしても決められた手続き以上の事を彼らもできないのです。それ以上の事をやってしまえば今度は彼らが違法になってしまう訳ですから。真面目で人の良い職員は自分達の無力さに日々ストレスを溜めている事でしょう。まぁ普通の職員は気に留めた事も無いでしょう(笑)。
ホステスの話に戻りますが、給料をくれと言うのは誰が考えても正当な言い分です。この場合特別な理由が無い限り悪いのは店側でしょう。法律で解決するとなると前述のような結果になる、しかし泣き寝入りだけは絶対にしたくない。
そうなるといよいよ私共の出番であります。私共に取り立てを依頼する場合は通常『取り半』と言って取り立てた金額の半分が私達の手数料になります。基本は『取り半』ですが、ケースバイケースで最悪は只仕事の時もあります(苦笑)。それが高いか安いかは皆様の判断におまかせいたしますが、私の元には日々そういった相談が舞い込んでまいります。そして私共は日々それを両者納得のいく形で解決しております。先の話で店側が納得して支払わない場合、私はどんな事をしてでも首を縦に振らせるでしょう。多くは語りませんがどんな事をしてでもです。
当然これらの事は重大な違法行為であります。ですが私は反省する気も、改める気も更々ございません。ちゃんと働いた者が泣き寝入りをするなんざ、有って良い事ではありません。たとえ非合法な行為であっても「間違ってるもんは間違ってる!」それで懲役を喰らってもいたしかたございません。
しつこくなりますが私共の行為を正当化している訳ではございません、違法行為は何を言っても所詮違法行為でございます。決して人助けの為だけにやっている訳でもございません、いただく物はいただいております。ただこういう業界が存在し、それを必要とする人々も確実に存在するのです。
関係機関にちゃんとした権限を与えて茶々と問題を解決できるようにすれば私共の業界に助けを求める人はいなくなる筈なのですが…。
私はそうなる事を強く希んでおります。
まだまだ色々なケースがたくさんございます。
これからも一つずつお話したいと思っております。
私共は非合法集団と呼ばれておりますが、さほど悪い事だとは思っておりません。決してすべての法律をシカトしているわけではございません(笑)。確かに法律の大半は必要かつ重要なものであると認識はしておりますが、所々に若干の苛立ちと、烈火の如き怒りを感じております。このテーマは重大でこの先何度も語らせていただこうと考えております。今回はその一部をお話ししたいと思います。
皆様は法律によって御自分の生活が守られているとお考えでしょうか?答えはyes。法律が持つ絶大な効力で私達は日々守られているのであります。法律が無かったらたったの一日で世の中無茶苦茶でございます。
『警察と裁判所』は合法・非合法の判定にたずさわる大切な仕事であります。法律の名の下に社会を守っている彼ら、非常にありがたい存在の筈であります。ところがどっこい、走っているパトカーや歩いている警官を見て「今日もありがとう!」と思う人は殆どおりません(笑)。
なぜなんでしょう(笑)?
警察という組織が間違っているのか、はたまた法律自体がまちがっているのか…。
法律とはもともと支配者が下に無理やり押し付けたルールであると考えています。ここの住人は年貢をいくら収めろだとか、払わない者には厳罰をだとか、要はさして理由も無く『金を払え!払わないならやっつけるぞ!』と言っているのと同じであります。その理不尽さに反乱が起きて、その度に『庶民派』の看板を掲げた偉い奴が登場して新たな法律を作る。この作業の繰り返しで発展してきた筈なのですが、重大な問題点があるのです。先に登場した『庶民派』の偉いおっさんは、あくまでも『庶民派』であって本当の『庶民』ではないのです。普通に考えても一般の庶民が法律を作る現場に居合わせてる方が不自然というものです。本当に庶民の側に立った法律など今だかつて作られた事などある訳がないと思っております。
だからと言って私共の悪事をあれこれと言い訳しているつもりはございません。法律がどうであれ違法は違法でございます。もし何かありましたらいつでも罰を受ける所存でおります。
弱肉強食の自然界のルールを敢えて無視し、人が人として弱者をも守りつつ繁栄していくための『法律』。
物資や食料の確保、心や精神の充足、争いや飢えの無い平穏な社会を円滑に作り上げる為の『法律』。
哲学者達が夢見たそんな『法律』は未だ夢のまた夢であります…。