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雲のように飄々と…月のように夜道を照らし…
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鮭釣りに行く度に感じる事のお話です。
私は毎年この時期になると同じ話をしております。
頑張って故郷に帰ってきた鮭を10匹も獲った・・・という事は忘れていただいた上でお読み下さいm(__)m
忘れていただかないと、この後の話が全て台無しになってしまいます・・・(汗)。
『鮭』 もはや日本中の方が当然知っている事とは存じますが、彼らは大海を何年も旅して、最後に生まれた川に帰ってその命を全うします。その最後の旅は、次の世代に命を繋ぐために死力を尽くした決死の旅でございます。よくTVで放送される事があると思いますが、その最後は壮絶なものであります。
鮭は大海にいる時は銀色に輝いておりますが、故郷の川に近づいてくると、段々と銀色が剥がれ落ち黒ずんでまいります。オスはシラコ(精子)に、メスはイクラ(卵)に激しく栄養を使うためらしいです。本当かどうかは知りません・・・。そして川を登っていく間に段々白くなるのです。水の中で白く腐っている魚の死骸を見た事があるでしょうか、あんな感じになるのです。上流を目指して泳いでいる最中にも、体はどんどん死んでいくのです。
もし人間に、出産するときは真冬の雪山でしなさい、というルールが有ったとしたらどうでしょう。身重の妻とその夫が、厳寒の雪山を身一つで登っていくわけです。衣服はボロボロになり、しだいに凍傷で皮膚や指が腐り落ち・・・それでも次の命を繋ぐために登り続けるのです。
決して投げ出す事無く・・・、そんな事が可能でしょうか。
そんな凄い事を、鮭達はやっているのです。
「思考の無い動物が本能でやっているだけだろう!」
その意見はよく判ります。鮭が何を考えているのか、それとも何も考えていないのか、私には全く判りません。
ですが、本能と言えど凄いもんは凄いのであります。
一般的に、鮭はどこまでも上流に行って卵を産む、というイメージが強いようであります。実際は人それぞれ鮭それぞれでありまして、河口で産む者もいれば、気合でどこまでも上流に行き産む者もおります。川全体にバラバラに産む事で、生存確率を上げようという作戦のようでございます。
本当に鮭は何も考えていないのでしょうか・・・。
時に自然は大切な何かを教えてくれているような気がいたします。具体的に何かを示してくれる訳ではありませんが、生きる姿勢であったり、命の厳しさであったり、とても大切な何かを・・・。
そんな事を考えるのはきっと人間だけなのでしょうね。
10匹獲った事は忘れてください・・・(>_<")
『噂』、大抵ロクなもんじゃありません。
辞書では①そこにいない人を話題にしてあれこれ話すこと。また、その話。②世間で言いふらされている明確でない話。風評。
まぁ、どの道ロクなもんじゃありません。
世間の噂とは、大抵は根拠のないものが多く、好意的ではない色合いが強いものであります。好意的な噂が無いとは言いませんが、割合的に考えると悪意の方が多いと思っております。陰口とは少し意味が違いますが、似たり寄ったりという感じでしょうか。所詮、本人のいない所でする話ですから、誰もが経験上わかっている事だと思います。
例えば飲み屋で木村さんの話をするとしましょう。
「最近、木村さん商売上手くいってて毎日呑みに出てるらしいよ。昨日ここにも来てくれたんだ。」と言う話と「最近、木村さん商売上手くいってて毎日呑みに出てるらしいよ。よくその辺でよく見かけるって話聞くわ。」
前者は根拠のある『事実』、後者は不確かな『噂』であります。後者の場合、本人に電話をかけたら「商売もヤバいのに、ふざけるな!」なんてお叱りを受ける可能性まで有るのです。この例は、悪意に満ちたものではないので、さほど罪は無いでしょうけど。
時に噂は人を深く傷つけます。それはもう深く深く・・・人の命を奪う場合も有るのです。始まりは興味本位なのかもしれませんが、どんどん悪意が付け加えられ、最後にはとんでもない話になっている・・・なんて事は少なくありません。
世の中には悪意に満ちた『噂』で溢れております。一般社会のみならず、テレビ、ラジオ、週刊誌に至るまで、噂で構成されているんじゃないかと思うほどに。いつから人間は、これ程までに『噂好き』になったのでしょう。親交が厚ければ本人から直接聞けるし、たいして自分に深くかかわりの無い場面であれば、情報なんて必要無い気がいたします。ガセの可能性まである不確かな情報なら、尚の事要りません。
自分に関わる噂が、まわりまわって自分の耳に入ってきた時などは大変でございます。誰から聞いた、誰から聞いたと順番に裏を取っていくと、最後は必ず「誰からだっけ?」などとふざけた結果で終わるのです。都合が悪くなると知らぬ存ぜぬを決め込むのが、『噂好き』の共通点であります。
私には三つ程ルールがございます。
一つ目は、その場にいない人間の話をする時は、なるべく良い話をする事。二つ目、良くない話をする場合は、本人を目の前にしても同じ話をできるのならばOK。三つ目、その場にいない人間を悪く言う時には、そいつと喧嘩する覚悟で発言する事。
以上が私の中の決まり事であります。
要は自分の発言には責任を持つ、と言う事でございます。
本人がいたら言えないとか、そういうつもりで言ったんじゃない等といった言い訳は最悪でございます。
『噂好き』の人間には、まずロクな者はおりません。
噂話はしない事、聞かない事がベストであります。
他人の口には戸はたてられません。
無視するのが一番でございます・・・(-。-)y-~~~~
『喜び』、生き続けるための糧でございます。
正常な思考を持っているのであれば『喜び』無しには生きていく事はできないと思うのであります。
今回は日常ふとした瞬間に感じる小さな『喜び』のお話です。
『小さな喜び』これはそこかしこに幾らでも転がっているものでございます。一歩外に踏み出せば、それはもう次から次へと・・・鬱陶しい位に小さな喜びで溢れております。そよそよと気持ちの良い風が吹いてきた、空の色がやたらと青かった、可愛い猫の親子を見た、レジの娘が上戸彩に少し似ていた・・・etc、小さな喜びだらけでございます。
最近この小さな喜び達を皆様シカトしてはいないでしょうか。
これらは流石に小さいだけあって、こちらの精神状態一つで軽く吹っ飛んでしまいます。イラッとして歩いている時に、可愛い猫を見かけてもただの汚い野良猫にしか見えないし、空の青さにも気がつかない事でしょう。小さいとは言え、いかようにももったいない事でございます。
道に点々と1円玉が落ちております。家までの道すがらボチボチとそれを拾って帰ります。家に着いて数えてみると合計100円有りました。要は100回も拾うという作業をこなした事になります。
「100枚集めたって所詮100円だろ!そんな事をしてまでたかが100円なんか要らねぇよ!」とおっしゃる方が必ずいると思います。100回拾う事を単純に作業として考えれば、手元に残るのが100円・・・恐ろしく作業効率の悪い愚かな行為であります。ですが100回もお金を拾う楽しさを味わったと考えるならばどうでしょう。「ここにも有った♪おっあそこにも♪」なんていうのが100回です。それはそれは楽しい時間だと思うのであります。たとえ得た物が100円ぽっちであっても全く問題ございません。
『小さな喜び』そんなもんで人が生きていける訳がないだろう、そんな吹けば飛ぶ様なものは要らねぇよ、そう言う方も多く居るかもしれません。もちろんそれだけで生きる原動力になるとは思っておりません。小さな物ばかりに目を奪われて真剣に追いかけていても困ります。1円拾いに夢中になってトラックにでも轢かれたら、それこそただの阿呆でございます・・・(笑)。
誰の道にも『小さな喜び』は幾らでも落ちています。
たいした物ではないかも知れませんが、わざわざ踏みつけて歩くような代物でもない筈であります。せっかく沢山落ちているのですから、道草にならない程度に楽しく拾いながら歩いてはいかがでしょう。
私は完璧に道草の途中であります・・・。 オッ! ( ..)_。
『いじめ』、前回私の体験を少しお話させていただきました。
あれが『いじめ』だったのかどうなのか私には判断する事ができません。私が反抗せず黙って耐えていたなら、どんどんエスカレートしていったのかもしれません。
私のブログを2Chで紹介していただいているらしく、その掲示板を見た方からメールを頂きました。
「学校のトイレで弁当を食べている」という内容のメールでございます。
理由は一緒に食べる友人がいなくて、一人で食べている姿を人に見られたくないからだそうでございます。返信用のアドレスを頂いていないので、この場で私の意見をお話したいと思います。
確かに学校での一人飯は辛いものであります。
私の場合はたったの5日間でしたが、今でもはっきりと記憶しているのですから相当なダメージであります。とにかく周囲の視線が辛かったのを覚えております(その為に窓側の一番後ろの席に引っ越した訳です)。
その辛さ悲しさを重々判った上で申し上げますが、一人で飯を食うのは悪い事なのでしょうか。それが世間一般の方の迷惑になるのであれば考えなくてはなりませんが、少なくとも誰にも迷惑をかけてはいないと思うのです。だとしたら一人ぽっちでも堂々と食えばいいのではないでしょうか。
友達が居ないというのは決して恥ずかしい事ではないと思っております。この先もずっと一人でいたいのなら話は別ですが、そうではないのなら今は真の友達に巡り会うまでの道程なのですから。たいした付き合いも無いのに会った事のある奴を皆友達としてカウントしている馬鹿共よりもずっとマシでございます。
どうか御自分を卑下なさらずに堂々と暮らしてみて下さい。飯も人間の楽しみの一つであります。せっかくの弁当をトイレで食べては美味しくなくなってしまいます。「弁当の端っこの小さな漬物が妙に美味かった」こんな事でも小さいながらも『喜び』でございます。『喜び』というのは生きていくための糧であります。小さな『喜び』も取りこぼす事なく暮らそうとする姿勢が大切です。若い貴方たちにはもっと沢山の大きな『喜び』が待ち構えている筈です。
社会のルールから外れ、落ちこぼれだの、社会のダニだのと呼ばれている私共でも、未だに幸せを諦めてはいないのです。世に恥じることの無い立派な学生さんが、そんな事でコソコソしていてはいけません。
死を選ぶのは実に簡単な事であります。今現在の苦しみからは即座に解放される事でしょう。でもその先に確実に有ったであろう『喜び』『幸せ』を体感する事は二度とできません。この世に生を受けその権利を放棄するのは如何ようにももったいない事であります。超有名なケーキ屋さんの行列に並び、あと少しで自分の番という時に帰ってしまうようなものです。
あと数年待ってみて、社会に出てみて、できるだけの事をあがいてみて、それでもダメだったとしたら、その時に死を選んでも良いのではないでしょうか。
『負』があれば必ず『正』があります。
『悲しみ・辛さ』の向こうには必ず『喜び・幸せ』が有るものなのです。
絶対にでございます。
私もヤクザです、男に二言はございません。
ただ面倒な事に『喜び』も『幸せ』も外の世界に在るものなのです。
どうか御自分の殻に籠もる事無く、外の世界を歩き続けてください。
縁があってメールを頂いた、私からのお願いであります。
ここ数日、北朝鮮の核実験のニュースが多く取り沙汰されております。報道がヒートアップする中、私には大きな危惧がございます。
それは『人種』という妙な感覚の事でございます。
私には外国人の友人・知人が多数おりますが、その中には在日朝鮮人も数人含まれております。私共世代の在日朝鮮人というのは、ほぼ100%日本生まれの方々でございます。日本で生まれ、日本語の新聞を読み、日本のテレビを観て、この日本で育ってきた人達であります。ただ親の都合で国籍が北朝鮮だというだけなのです。たかがそれだけの事でここ数年随分と不当な扱いを受けております。
私は、日本の文化や感覚といったものが大好きで誇りにも思っております。ですがこの外国人に対する感覚だけは、どうにもこうにも納得がいかないのであります。どんな人種にでも悪い奴は居るし、善い者も居るんです。あくまで個々の問題であります。ペルーだかチリの変態野郎が幼女を殺したからといって、南米人の労働者達を白い眼で見る必要はない筈です。ジーコだって南米人じゃないですか。中国人の窃盗団が有名だからと言って、中国人が皆泥棒な訳じゃぁないんです。あたりまえの事であります。
どうも外国人に対しては、日本の古くからの感覚を引きずり続けている気がいたします。この先も彼らを警戒の眼差しで凝視する限り、打ち解けた付き合いが発生する事はまず無いでしょう。普通に考えても、変な目つきで最初から疑ってかかる奴らと友達になんてなれません。
国同士の事なんて、インチキな政治家と世間知らずの外務省の役人が、勝手にやっていればいいのです。喧嘩するのも仲良くするのも勝手にすればいいのです。知った事じゃぁありません。私も含めて今の日本人は『赤紙』が届いても皆シカトでございます。戦争なんて絶対に起りません。最悪起ったにしても日本が一方的にやられてお仕舞いです。そん時ゃそれでしようがありません(笑)。
せめて同じ街に住む人間同士は、普通の関係でありたいと思っております。特別フレンドリーになどとは言っておりません。
人種など関係なくただ同じ街の住人として普通に・・・。
中国や韓国は、何かと言うと『日の丸』を焼きたがります。もちろん一部の人間がやっているだけであって、国民の総意でやっている訳ではございません。気分の良いものではありませんが、そんな事で気が晴れるのならコンテナ10台分位の『日の丸』を送ってやればいいのです。「どんどん焼いて下さい。足りなくなったらまた言って下さい。」と手紙を添えて(笑)。
その程度の茶目っ気があってもいいでしょう。
自由な国『日本』のユーモアと器の大きさを見せつけてやればいいんです(-。-)y-.。o○
私共の街も最近は外国人だらけでございます。色々な商売をやったり、酒を呑んでバカ騒ぎなどを日々やっておりますが、特別悪い事をしている奴はさほどおりません。まぁやれるもんならやってみろ・・・という感じですが(笑)。肌の色や言葉や神様が違うだけで、酒を呑めば酔っ払う普通の人間でございます。沖縄や九州の方言でもよく解らんのですから・・・。
幸い日本には『情報規制』も『歪んだ政府教育』もございません。民族同士のいざこざも、政府と軍隊の争いもございません。
こんな豊かで素晴らしい国に生まれ育った人間が、肌の色の違いぐらいでピーピーとうるさい事を言っていてはいけません。
そんな了見では器の大きさを問われてしまいます。
遠い所から見知らぬ土地にやってきて頑張る姿はどんな人種であれ美しいではありませんか。
懐の大きな日本人でいたいなぁ・・・と思うのであります。
仏教にも愛の教えがあります。
出家した坊さん達は禁欲生活なのに、ちゃんと教えがあるのですね。
渇く愛と書いて『渇愛(かつあい)』と言う言葉がございます。喉が渇くように愛を求めると言う意味であります。
交際中のカップルを例にとりますと最初は「一緒にいてくれれば良い」、やがて一緒にいる時間が長くなれば「優しくして欲しい」、優しくして貰えるようになると「あんな服装をして欲しい」、もっと気を使って欲しい、もっと稼いできて欲しい、もっと、もっと、もっと・・・。
一つの事をクリアすれば、また次の欲が沸いてくる、そんな愛情を表現した言葉であります。
交際当初には言わなかった注文が増えてくる。
大なり小なりの差こそあれ、普通の恋愛は大抵そういうものであります。
『渇愛』に対して『慈悲(じひ)の愛』、これが通称『無償の愛』と呼ばれているものでございます。ただひたすらに与え続け、代償を一切求めない、それが『慈悲の愛』であります。
自分が心に決めた人、その人の幸せの為にならどんな事でもしてやろう。たとえ自分が伴侶として選ばれなくても、変わらず生涯想い続け、己の身が果てるまで尽くし続けよう。
ここまで想える相手に巡り逢えればそれだけで人生納得がいくというものです。
仏教では仏が全ての人々に対して『慈悲の愛』を与え続けていると教えております。
そんな事ぁどうでもいい訳であります。
仏に何か与えて貰ったと感じた事はただの一度もございません。
ただただ良い言葉だなぁ・・・、自分もかく有りたいもんだなぁ・・・と思っております。
仏教には良い言葉がまだまだたくさんございます。
この世に繋がりの無い物など何ひとつございません。
どんな理屈で宇宙や地球ができたかは解りませんが、全てがうまい具合に輪になっているような気がいたします。
解りやすい例で言えば食物連鎖、微生物やプランクトンから始まり段々と大きな生き物に食われて行き、最後その亡骸はまた微生物に食われて延々と廻り続けていく訳です。
人の世で起こる様々な出来事、悲しい事、嬉しい事こういった形の無い物も連鎖しているような気がいたします。
信じる神の違いでいざこざが起き異教の徒を弾圧し、弾圧による支配がテロを生み、その芽を摘む為に戦争をする。その戦争に巻き込まれた子供達は復讐を誓いながら育ち、そして又テロを生む・・・。
金本位の社会は人の人間性など無視して脱落者を作り上げ、脱落者と呼ばれる人達は更に弱者を、自分より力の劣る者を、女を、そして子供を・・・。行き場の無い子供は、大人や親を殺し、それを選択できなかった場合は自ら死を選んでみたり・・・。例え輪になっていないとしても、連鎖、連鎖、連鎖・・・全ては繋がって行くのであります。
悲しいかな全て悪循環というものは、止めづらく廻りやすい物のようであります。
世の中には『負』があれば必ず『正』も有る筈であります。
歯車が堅く廻しづらいが努力をすれば好循環という物も有ると思うのです。大雑把な話をすれば、左の人に助けてもらったら右の人を助ける、その人は更に右の人を・・・といった具合に繰り返して行けば、地球をグルッと廻ってまた自分に・・・なんて事があるかもしれません。
募金で助けてもらった子供達が感謝を忘れずに育ち、立派な大人になって人々の為に行動を起こすかもしれません。恩をあてにする訳でも、善行を強要する訳でもありませんが、努力をすればこんな連鎖も可能ではないかと思うのであります。
夢物語と笑われてしまうかもしれませんが、夢や希望が無ければ生きていく事もできません。
弱い者は強い力を渇望し、飢えた者は豊食を熱望する。
荒んだ者は清い愛情を求め、抑圧された者は力の限り自由を掴もうとする。
欲望に汚れた世界に身を置く私は、美しい人の繋がりを夢見てしまうのでしょうか。
『顔』は大切です、人間の看板であります。
見てくれの事だけを言っている訳ではございません。それも大切ではありますが、どちらかと言えば『人相』のお話です。
顔つきと言うのは不思議な物で、生活環境や歩いてきた人生で全然ちがって見える物でございます。ひどい時にはたったの数日でガラッと雰囲気を変えてしまう場合もあるのです。
ですが長年かけて作り上げた『人相』という物は隠そうと思っても、そうそう隠せる物ではありません。
顔のパーツ自体は美男・美女の筈なのに一本足りないような間抜け面に見えたり、槇原敬之みたいなすっとぼけたパーツなのにキリッとして見えたりといった具合で。これはもう生きて来たスタイルの影響以外の何ものでもないと思っております。
私は、間 寛平にそっくりなヤクザに会った事がございます。本人じゃないかと言う位に似ていたのですが、やはり顔つき&オーラは間違いなくその筋の者でした(笑)。
私はまず『顔』で人を判断いたします。こういう言い方をするとお姉ちゃん達はドン引きします・・・(汗)。「人間は中身でしょう!」とよく言われます、重々承知しております。ですが、その中身が外にも滲み出ていると思うのです。私的には間違いないと確信しております。
大体にして大嫌いな『顔』をした人間と深い話などする訳が無いじゃありませんか。「話をする事すら無ぇのに中身もクソもあったもんじゃねぇだろ!」といつも言っております。
何度も言いますが、男も女も人相は隠せません。
詐欺師は詐欺師の顔になり、泥棒は泥棒の顔になります。もちろん善い人は、当然善い顔になります。TVに出ている人達の顔をじっくりと良~く見てください。政治家の顔、芸能人の顔、スポーツ選手の顔、アナウンサーの顔・・・etc。具体的に誰がどうだとは申しませんが、注意深く見ていると色々な事に気付く筈であります。誰が誠実で、誰が嘘つきか・・・。
また人の事ばかり論(あげつら)ってしまいました。
不良もまた、不良の顔になります。
私が人混みを歩くとちゃんと道が空いてしまいますから・・・(汗)。
性善説・性悪説、人は生まれながらに善なのか悪なのかという話を良く耳にいたします。
私的には、法律等を基準にして最大多数の最大幸福が『善』であるとするならば、人の性質は『悪』で生まれてくると考えています。生き物としての本能自体が、人間社会に照らすと『悪』になるという意味でございます。ああ・・・哲学者みたいな話になってしまいました。「生きる為なら何でもするよ。」なんて言っていたら世には通用しない訳ですから。
善か悪かは別にしても、生まれ持った『性格』という物は存在すると思うのです。私は、草木も含めて全ての生き物にあてはまると考えております。どんな生き物でも同じタイプばかりが生まれてきとしたら、絶滅する時も一瞬であります。ある日突然『外敵』が現れた時に、全員が超攻撃タイプでいきなりの総突撃。勝てれば問題はないのですが、敵が強ければ全滅という事になってしまいます。やはり《逃げるタイプ》《隠れるタイプ》《友好的なタイプ》《卑怯なタイプ》《超攻撃タイプ》《少しだけ攻撃してみるタイプ》・・・etc、様々なタイプが居なければ種の存続が難しいかなぁと思うのであります。
生まれたばかりの赤ちゃんでも、誰の顔を見ても泣く子・誰に抱かれても笑ってる子などの違いが有る訳ですから、たぶん生まれた時点で『性格』のベースは決まっているのだと思うのです。
5~6年前に『エニアグラム』という物を知人から教えていただきました。人間の性格を9つのタイプに分けて研究した学問であります。題名に《9つの性格》というのが含まれている本は大抵『エニアグラム』を材料に書かれているようです。この『エニアグラム』ですが実に面白い、見事に人間の性格を分類してあるのです。ここで説明すると長くなってしまいますので勘弁してください。自分が9つの内のどれに当て嵌まるのかを調べられるサイトがありますので是非お試しあれ(もちろん丁寧に説明してくれています)!
"http://shining.main.jp/eniatest.html"
私は物の見事に8番目の『超攻撃タイプ』良く言えば親分肌らしいですが、まぁうっかり全滅してしまうタイプの人間であります(笑)。
ベースになる性格が9つだとしても十人十色、持ち味は人それぞれでございます。
私は性格が全く違っても、自分と似たような部分を持っている人間が好きであります。
自分は何のために生まれてきたのか?
常日頃、この難問に向き合っている方も多いと存じております。
そうではない方々でも、凹んでブルーになった時、大切な誰かを亡くした時、心から好きな人ができた時、子供が生まれた時、大きな喜び・悲しみの節目節目に誰もが一度は考えた経験があるものと思っております。
最初から申し上げておきますが、これはあくまで私個人の見解であります。かなりの極論でございます。軽くキチガイじみておりますがご了承ください。
いきなりで申し訳ないのですが結論から言えば『生きる意味という明確な物は無い!』というのが私の持論でございます。
『生きる意味』何千年も昔から哲学者や宗教家、その他にも様々な分野のスペシャリスト達が躍起になって考えているテーマでございます。だが誰一人として万人をスカッと納得させられるような結論には至っていないのです。これだけ昔から大勢の人々が明確な答えを出せない訳ですから、多分答えなど無いのでしょう。
決して投げやりな気持ちで言っている訳ではございません。生きる事を粗末に考えている訳でもございません。ただ自分自身を含め、人間というものは何かにつけて理由を欲しがる生き物だなぁと・・・。
私が生まれてきた理由は「私が生まれたかったから」であります。これは強く断言できます。当然色々な偶然が絡んで・・・んー、全てが偶然かもしれません。父と母の「子供を作ろう」という意志と、3億の精子の中から「生まれたい」という一心で勝ち残った私の意志がナイスなタイミングで一致した結果だと思っております。3億の中から勝ち抜くというのは凄い事であります。記憶は当然ありませんが「生き残りたい、生まれたい」強烈な意志を持っていたからこそ今の私がある訳でございます。
「生まれたくて生まれた訳じゃない!」などと言う輩がおりますが、全く馬鹿げております。親の意志がどうであろうが、愛情がなかろうが、生まれてきた事自体は自分の意志が大きく働いているのです。他のライバル達を蹴落としてまで生まれたかったのです。
ではそれ程までして何故生まれたかったのでしょう?
おそらく新しい世界にチャレンジしたかったのでしょう・・・分子レベルで(汗)。地球上の草木も生き物も皆所詮『炭素(C)』でできています。例えば私が60歳まで生きるとしたら、その60年が今回縁があって集まった『炭素』達の共同作業の期間であります。今回のプロジェクトは灰になって解散です。そして土になり、気の合う者同士で草になったり、怠け者が集まって化石になったりと・・・。
キチガイじみていますがそれが自然のサイクルだと思っております。
これだけ日々たくさんの人間が生まれてくる訳ですから、炭素業界でも『人間』は人気の職業なのでしょう。
『生きる意味』今回の本題であります。
例えば、『イチロー選手』を見て「彼は野球をするために生まれてきた」なんて事を言う人がいます。
果たしてそうでしょうか?もし彼が陸上をやっていたらカール・ルイスより早かったかもしれません、サッカーをやっていたら中田英寿よりも大選手になっていたかもしれないのです。だってそんな感じのする人ですよね。『エジソン』は発明の父なんて呼ばれておりますが、もし彼がいなかったとしても2006年の今、夜は明るくライトアップされている事には変わりないと思うのです。いずれ誰かが同じ発明をしたでしょう。彼は発明をするために生まれてきた訳ではないと思うのです。
彼らが『野球』『発明』周囲の人が天職というものに巡り会ったのは偶然です、たまたまです、たまたま。彼らは野球や発明に出会わなくてもきっと歴史に名を残す事になったでしょう。
人は何かを残して初めて意味を持つのでしょうか?
子供・言葉・偉業・事業・様々な物品・・・etc。
自分の生きた跡を残さなければ意味を持たないというのは、まともに物事を考えられる人間殆どに当てはまる『囚われ』ではないのでしょうか。またもや極論ですが、何かを成さねばならないのであれば、生まれてすぐに目を開けることもなく死んでいった赤ちゃんには意味が無い事になります。食肉用に繁殖された豚や牛は、人間の餌になるという意味を持ちながら今を生きているのでしょうか。少なくともうちの可愛い猫たちは、私を喜ばせるために生きている訳ではない筈です。
人は自分を『満足』させる為に生きているのだと、私は強く信じています。『生きる意味』を求めるのも自分を満足させるための一つの糧であると思っています。人は必ず何かしらの『理由』で行動をし、そしてその『結果』を得られないと生きていけない生き物なのです。それが『満足』であれ『不満』であれ。腹が減ったという理由で飯を食べ、美味ければ『満足』、不味かったり量が少なければ『不満』。「子供がほしい」「気持ちいい」という理由でセックスをする、子供もできないし快楽も無ければ誰もセックスなどしないでしょう。腹が減らなければ食うこともせず、皆死に絶えてしまうでしょう。
せっかく激しい競争を戦い抜いて、この世に生を受けた訳であります。だとしたら自分を『満足』させる為に精一杯の時間を使って生きるのが筋でございます・・・なるべく他と共存しながら。そして『満足』するためには「これをやる為に・・・」的な『理由』を探さなければなりません。これがまた大変な事なのですが・・・(ー_ー)。
『生きる意味』などという物は無い!
言い方が悪いですね「世の中には無い」、もし在るとするならば『自分の中』にだけでございます。自分が死ぬ時に納得できればそれだけで最高の人生だと思っております。他人様に生きてきた意味を持たせてもらう筋合いもありません。
私は生まれたくて生まれたくて、この世に生まれてまいりました。
人間の目でこの世界を見てみたいと熱望してきた筈なのです(炭素の頃に)。
人間社会を人間らしく力一杯体験する事が私の『生きる意味』だと思っております。