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雲のように…月のように…

雲のように飄々と…月のように夜道を照らし…

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笑い事

民主党の某アホ議員と不倫をしていたアナウンサーの山本モナが『お笑いウルトラクイズ』で復帰するそうです。本当にどうでも良い、くだらない、しようもない話でございます。何故こんな話題に触れるのかというと、大きな失敗をした人間をどうやって立ち直らせるか、という事をお話したかったからであります。

朝ズバ!で知ったのですが、山本モナは『オフィス北野』の所属らしいのです。ビートたけしの事務所であります。それを見た時、思わず「はっは~ん。」と唸ってしまいました。『ビートたけし』らしいやり方だなぁと思ったのであります。もういつだったかも忘れてしまいましたが、かなり前に飯干恵子が『統一教会』という宗教団体に引っ掛かった時と同じケースだと思いました。

飯干恵子も『お笑いウルトラクイズ』で復帰しました。その時の優勝賞品は時価100万円の『壷(つぼ)』でした。統一教会が信者に無理矢理売りつける、噂の一品でございます(笑)。
後日、ビートたけしがその事を他の番組で話していたのですが、その内容が実に印象的だった事を覚えております。
「周りが笑い事に変えてやらなければいけないんです。」
正直、感心いたしました。そして優しい人なんだなぁと思いました。

世間からは、タブーに思いきり触れたブラックジョークに見えていたようです。飯干恵子は自分の不幸を笑いに変え、はっちゃけた姿を披露して見事に社会復帰に成功いたしました。ビートたけしの作戦通りでございます。

離婚直後の友人に、恋愛の話を避けたり、子供の話を避けたりと変に気を使う事がある筈です。皆様にもそういった経験がございませんでしょうか。リストラであるとか、商売を潰したとか、大きな事故を起こしたとか、凄い額の借金を作ったとか・・・、生きていれば色々な大失敗がある筈なのです。本人は世間に出辛くなり、その時周囲はどう対応すれば良いのか。

大きな失敗をした人間は、自分の失態に恥じてなかなか自己主張をしなくなるものであります。皆の集まる場に顔を出し辛くなったり、話の輪にも積極的に参加できなくなったりするものなのです。周囲の人間が変に気を使ったりすると、余計に本人も居づらくなってしまいます。

本人が強く恥じている部分を『ネタ』にして笑い話に変えてしまうのが、ビートたけしのやり方であります。決して、馬鹿にして嘲笑するという意味ではありません。
「いつまでも気にして悩むような事ではないよ、ネタにして笑い飛ばしてしまおうぜ!」と言う意味であります。本人が自分の恥話をネタにして笑えるようになれば、もうその人は大丈夫だと思うのです。

本人が身を削って笑いを取れるような環境を、敢えて作ってやるのが大人のテクニックでございます。これがなかなか難しい・・・、ネタにされる事を嫌う人も世の中にはたくさんいます。そういう人には、皆が気を使って言えないような事を、ビシビシと突っ込んでやるのです。

例えば、離婚して落ち込んでいる奴には「おうっ何よ!家にいても淋しいから呑みに来たのか?」なんて声をかけたりします(笑)。そいつが「今度、飯でも行きましょう。」と言えば「一人で食う飯は辛いもんなぁ(笑)」。「そろそろ帰ります。」と言えば「誰も待ってねぇのに、もう帰んのか?」こんな調子で延々とツッコミを入れるのです。周囲も最初の内はドン引きになったりしますが、そこは一切お構いなしであります(笑)。

失業した者やリストラされた奴には「おいプータロー、プラプラしやがってどうせ毎日暇なんだろ。釣りに行くから運転しに来いや!」と連れ出してみたり、「世界中でたった一人、お前だけが仕事もしないで暇みたいだから、ちょっと手伝いに来い!」などと雑用を手伝わせたりするのです。

変に人様に気を使われるよりも、歯に衣を着せずズッパリと言われた方が、不思議と気が楽になったりするものです。一緒に落ち込んでやるのも良いですが、こんなやり方も在るのです。
思わずプッ!と笑わせてしまえば勝ちなのです。

ただし、誰にでも手当たりしだいにツッコミを入れれば良い訳ではございません。ちゃんとした人間関係ができている上で、早く元気になって欲しいという愛情を持って『ネタ』にしてあげて下さい。そうでなければ、ただ空気が読めないだけの嫌がらせキャラになってしまいます(汗)。上手に使わなければ、早く元気になってもらう為の憎まれ口が、本当の憎まれ口になってしまいますので御注意を(笑)。

失敗した張本人は色々と余計な事まで気にしているものです。あちこちで自分の事を悪く言われているような・・・、そんな気になってしまうものなのです。その人を早く立ち直らせたいのなら、ビートたけしの言うように、失敗した出来事を周囲が笑い事に変えてやれば良いのです。だからこそ、そんな人間を見つけたら、影で噂なんかしていないで正面からビシッとツッコミを入れてやりましょう(ちゃんと愛情を持って!)。


生きていれば、失敗する時も、成功する時もあるものです。反省は必要ですが、そこにしゃがみこんでいても物事に進展はございません。いかに素早く立ち直り、また挑戦するのが大切な事だと思っております。そして、自分の周りの大切な人達には、無理矢理にでも早く立ち直らせたいと思っております。


やってしまった事はしようがないのであります。
全部、笑い飛ばして生きて行きたいものだと思っております。


あ~ぁ・・・まぁ、しゃあないわ・・・(笑)。.(^。^)y-~

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理由

どんな物事にでも『理由』というものがある筈です。
理由無くしての結果はこの世にございません。人間も、動物も、自然であっても同じだと思うのです。こちらがいくら理不尽に感じていても、先方には先方なりの理由が、自然には自然なりの道理が、必ず存在するものだと思っております。

人はそれぞれ、似ているようで異なった感受性を持っております。受け止め方が違うのですから、大なり小なり意見に食い違いが出るのも当然の事であります。当然の事だと知りつつも人というのは、同じ場面で笑い、同じ場面で怒り、同様に悲しむ人間を、仲間として求めるものでございます。

感受性の違う人間に遭遇した時、人は必ずと言って良いほど『理由』を求めます。そして、相手の持つ理由に対して大きな誤差を認識すると、否定という形で対処しがちになるように思うのです。私の場合ですと「そりゃあ違うだろ」とか「そうじゃねぇだろ」という言葉になって現れます。


先日、24歳の若いホステスから「店を辞めたいのだが、今は人手不足だから言い出せないで困っている。」との相談を受けました。私に店と話をしてくれという頼み事なのかなぁと思って聞いていたのですが、そういう訳でも無いようです。いくつかのパターンを説明して、こういう風に話をしてみたらどうだ、と提案しても「言えないですぅ~」なんて答えばかりが返って来ます。人の助言を全部却下しやがって・・・、じゃあ一体どうしたいんだ、という話に当然なります。
「判らないんですぅ~♪」・・・(-_-メ)

あれもできない、これもできない、段々イライラしてきた私は、相談に来た理由を問い質しました。
本人的にはまだ何の方針も決っておらず、参考にするしないは別にして、とりあえず私と話をしてみよう、と思ったらしいのです。
理由を聞いてみれば何の事はない、それもまぁアリだなと思ってしまいました。

ただ自分の行動パターンには有り得ないなぁ、とも思いました。私に置き換えて考えると、いくつかの選択肢を自分なりに考えた上で、どの方法が一番大人の選択だろうといった事を相談に行くと思うのです。どちらが正解といった話ではございません。人それぞれに違う感覚と理由があるものだなぁ、という事であります。
まぁこれは軽~い一例でございます。

連日報道されております、イジメや自殺、公務員のネコババにはどんな理由が存在するのでしょう。誰かをイジメなければならない理由、死してまで逃げなければならない理由、皆で出し合った大切な金を盗まなければならない理由・・・、きっとそれぞれの理由があるのでしょう。弱い者をイジメるとスカッとする、盗んだ金で遊ぶのは気分が良い、こんな事でも当事者側からすれば立派に理由となるのです。

意見の食い違いを修正するためには、まず先方の行動とその理由を理解しなければなりません。理解できないまでも、理解しようとする努力は必要です。根本から違うのであればいつまで経っても平行線、どちらかが少しでも寄り付こうとしなければ解決は望めません。決裂する事は簡単ですが、和解する事はなかなか小難しい作業なのであります。

罰則を厳しくしたからといっても物事の根本的な解決にはなりません。現に駐車違反も飲酒運転も減ってはおりません。違反する側の理由を一切理解しようとしていないからでは、ないのでしょうか。駐車違反常習者に言わせれば、無料か格安の駐車場が充分に確保されていれば路駐などしないと言うでしょう。飲酒運転常習者も同様に、どんなに遠くても往復で千円のタクシーがあれば、酔って運転などしないと言うでしょう。

違反者側の極論を全て聞き入れろと言うつもりはありませんが、少し位は参考になるのではないでしょうか。駐車違反が多い所には、国で格安の駐車場を作ってやったらどうでしょう。理由を理解し歩み寄る事で、少しは解決に向かうような気がいたします。

イジメもそうではないでしょうか。
なぜ誰かを標的にして、イジメなる行為をしなければいけないのか。誰かを自分よりも下に位置付けして、自分は底辺の人間ではないぞ、むしろ強い側の人間なんだぞ、という事を誇示したいのだと思うのです。彼らも自分自身の位置付けに自信が無く、不安でいっぱいなのでしょう。その不安を取り去ってやるよう考えるのは、大人の仕事以外の何物でもありません。

そんな事をしなくても貴方達はそれぞれ一個の素晴らしい人格なのですよ、上も下も無く独立した一人の人間なんですよ、という事を教えて不安を取り去ってやる事が解決につながる道のような気がいたします。簡単な事ではありません。教員の人格も必要になるし、親の人格もまた必要になってきます。ですが双方の理由を考える事で、初めて歩み寄りというものが可能になってくるのではないでしょうか。そして、様々な物事が少しだけでも解決に向かうのではないでしょうか。


巧くいかない事がある・・・。
巧くいかない理由は何か・・・。
じゃあ巧くいってる奴の理由は何か・・・。
必ず理由がある筈なのです。間違いなく絶対にあるのです。

人様の『理由』は見つけられなかったり、理解できなかったりと難関が多いものです。ですが前向きに理解しようとしなければ、一生欠片も理解することができません。
仲間や伴侶に対しても全く同じ事でございます。


『理由』 これが無ければ人間は動きません。

ここ連日の出来事でついつい命というものを考えてしまいます。
命は何よりも重い物と考えてきましたが、実はそうではないのではないかと思うのです。騒動続きで頭がおかしくなっている訳ではございません。自暴自棄になっている訳でもございません。

私は、大切な人達も含め多くの方々の死を、年齢の割には見届けている方だと思っております。自身で死を覚悟した事も、一度や二度ではありません。とは言え、決して自らの命を粗末に考えた事もございません。だからこそ命や死に対して、正面から向き合ってきたと言う自負があるのです。

先日の友人の事故を見て思ったのです。何であんな所に、何でそんな仕事に・・・、そんな事を考えてもどうにもならない事は判っております。それでも頭から離れないのです。そして、そんな簡単に死ぬなんて嘘だろ・・・とも思うのです。
ですが人間なんて簡単に死んでしまうものなのです。

私は今まで大きな勘違いをしていたのかもしれません。
もしかしたら命というのは、物凄く軽いものなのでは・・・と感じているのです。粗末という意味ではございません。その軽い命が吹き飛ばされればそこで終り・・・、人間とは実に儚いものであります・・・。吹けば飛んでしまうような軽いものだからこそ、大事に大事に守っていかなければならないのではないかと思うのです。

突風が吹いただけ、大雨が降っただけ、地面が揺れただけ、歩く場所が1メートルずれただけでも人間は命を失ってしまうのです。えっ、そんな事で?と思う事でも人は日々死んで逝くのです。それは、いつ誰の身に降りかかるともわかりません、当然私にも・・・。人間とは、とても繊細で頼りない生き物であります。だから集団でコミュニティを作り暮らしているのでしょう。

そっと触れただけでも壊れてしまいそうな命を抱えて、私共は生きていかなければなりません。様々な危険を想定し、様々なものと闘いながら生きているのです。時に外敵、時に環境、時に病、時に精神と闘いながら一日一日を生きているのです。神の意志で、自然の摂理で、生かされている訳ではございません。確実に自分の意志で生きているのであります。

儚いものは美しい・・・。
夜空に一瞬で消えていく花火、一斉に咲き誇り散っていく桜、命を力の限り守ろうとする人間、皆一様に儚いが故に美しいと思うのです。命の軽さを踏まえた上で、尚且つ精一杯生きようとするその姿勢こそが美しいと感じてしまうのです。

先日の友人の通夜に続き、今夜も別な通夜がございました。以前記事にした私の祖父の葬儀の時に、お世話になった坊さんがお亡くなりになったのです。彼は祖父の幼馴染で、祖父の葬儀の際、浄土の世界を説きながらも現世の別れに涙してくれた優しい方です。91歳の大往生でございます。今年は寺を継ぐ予定の孫の結婚式も見たし思い残すことはもう無い、と生前言っておりました。

志半ばで逝った若者の葬儀、思い残すことなく旅立った老僧の葬儀、残されたご遺族はどちらも同じように泣いておりました。事故であろうと、大往生であろうと、残された者の悲しみを比べる事はできません。そして若かろうが年老いていようが、命の重さを比べる事もできないのであります。

命は儚く軽いもの、そして何よりも最も大切なものでございます。喜びや幸せも命無しには味わえないのであります。せっかく手に入れた命をどうか大切にして頂きたい、当然私も大切にしております。

職業や人柄、全ての事象に関わらず、世に生きる全ての人々に当て嵌まる事ですが、軽い命に対して突風がいつ吹くかは判りません。善人だろうが、悪人だろうが、世に必要で有ろうが無かろうが、命には何ら差なんてある訳がございません。その命を簡単に捨てるなんて事は、儚くも美しくも無い最低の行為であります。

何を訴えたいかは自分でも判りません。ここ数日、同じ事を繰り返し繰り返し考えておりました。


脆く、儚く、頼りなく、そして軽い命を、大切に守り続けながら、日々生きていこうと思っております。具体的にどうするかといった事も判りかねてはおりますが、漠然とそう思うのです。


命とは、そして生きるという事は素晴らしい事だと思うのです。

反骨

反骨精神という言葉がございます。
【権威・権力・時代風潮などに逆らう気骨】と辞書に載っておりました。
純粋なものとは口が裂けても言えませんが、私共もこの精神を少なからず有しております。

『反骨精神』、私にとっては、とても大切なコンテンツであります。
ガキの頃から知らない内に、支えてきてくれたような、縛られてきたような、不思議な感じがいたします。
「ん?そりゃちょっと違うだろ」と頭の片隅に浮かぶと、白黒が付くまでスッキリしなかったのであります。ここ数年で少しだけ大人になったらしく、白でも黒でもないものが存在するんだ、という事を認められるようになってまいりました。
白黒以外のものを認めるのに、約30年も費やしてしまいました(笑)。

以前に紹介したエニアグラム(9つの性格)で、私はタイプ8(最も攻撃性の強いタイプ)に分類されておりました。人にはそれぞれどうしてもこだわってしまう部分『囚(とら)われ』というものがあり、タイプ8の『囚われ』は『力』であります。エニアグラムの本を人から頂き、自分のタイプの分析を初めて読んだ時、子供時代からずっと見られていたのかなと思うほど的確に私の性格を表現されていて、ひどく驚いてしまいました。
騙されたと思って一度御自分のタイプを診断してみてください。

エニアグラム診断
"http://shining.main.jp/eniatest.html"

私は子供の頃から、自分より強い者・集団・上下関係などに過敏に反応してしまうのです。自分が納得し認めた人間には手放しで応援し、その人間を邪魔する人間は無条件で排除してしまおう、といったスタイルでした。他から力を押し付けられると、激しく怒りを覚え徹底的に闘いを挑むのです。力というものに異常に反応し、勝つ事にも異常な執着を持っておりました。

「仲間の敵は自分の敵だ、だから全部やっつけてしまえ!」なんてトンチンカンな理由で、いちゃもんをつけられた側としてはたまったもんじゃありません。今考えると、私が『理不尽な力』そのものだったのではないか・・・と思うのです。上からの力を一番嫌っていた人間が、結局は自分も人様に対して同じ事をしていた訳でございます。
我ながら不細工で格好の悪い話でございます。

子供時代は、所詮学校程度の小さなコミュニティの中での暮らしであります。その片隅で少し頭のおかしいガキが、暴君と化していても社会になんら影響を与えることはありません。しかし大人になって、大きな人間社会で暮らしていくとなると、全く別な話でございます。筋立てて物事を考え、人様の中で暮らしていく事を考えなければいけません。

時間こそかかってしまいましたが、よく私のような人間がそんな考え方をできるようになったなぁと、自分でも感心しております。まぁ私の場合、唯一尊敬できるたった一人の兄貴分が、言葉ではなく『背中』で『生き様』でそれを教えてくれたからなのですが・・・。
お陰さまで、ある程度正しい『反骨精神』が身についたのではないかと、ニンマリしております(笑)。


法律がどうであれこうであれ、良いもんは良い、悪いもんは悪い!
これが私共の『反骨精神』でございます。


兄貴が死んだら墓に向かってお礼を言おうと思っております。

生きてる間は絶対に言いたくありません・・・(-。-)y-゜゜゜

立ち位置

人にはそれぞれ『立ち位置』というものが有ると思うのです。
その人その人に合った『立ち位置』、いつか到達したい理想の『立ち位置』、今現在自分が置かれている『立ち位置』等々。
『ポジション』や『立場』とニュアンス的に近いのですが、私はこの『立ち位置』という言葉を多用してしまいます。なんとなくですが、色んな意味を含んだようなこの言葉が好きであります。

私は、今現在の自分の『立ち位置』をたまに冷静に考えてみる事が、とても大切な事だと思っております。社会的にどんな立場にいるのか、組織的にどんな立場にいるのか、そして友人的にどんな立場にいるのか・・・etc、第三者的に自分の事を考えてみるのです。人様の目から見た自分の欠点やその姿等を想像し、ずらーっと並べてみたりします。

社会的には・・・ガラ悪い・人相悪い・関わりたくない、関係ない一般人ならドン引きだろう(汗)。
組織的には・・・勝手過ぎ・態度でかい・何言っても無駄、もう好きにさせておけ的な感じかなぁ(笑)。
友人的には・・・適当・毒吐き過ぎ・短気・気難しい・死ねばいいのに、どうやったらこんな人間になるのよ(呆)

・・・とまぁ、こんな感じでしょうか・・・、どっか遠くの知らない土地に逃げたくなりますね(笑)。
あくまでも、これは欠点を想像しただけであります。
本当ですよ、結構良いところもたくさん有るんですよ(汗)。
「いい人だ。」って言ってくれる方も結構いるんです、本当です。
まぁ、いいです・・・。

こういう風に他人様目線で欠点を並べた後に、次は『理想の立ち位置』というものを考えるのです。もっと一般の人達からフレンドリーに話しかけられたい・・・と思えば、髭を剃っちゃおうかなぁとか、シングルの三つ釦スーツを着ちゃおうかなぁ、なんてアイデアが涌いてきます。当然、私が髭を剃り、三つ釦のシングルのスーツを着たからと言って、突然皆様からフレンドリーに話しかけられるとは思っておりません(笑)。

こんな考え方をしてみると『理想の立ち位置』に向かって行く為の改善点やアイデアが、自然と浮かんでくるものであります。なんせかんせ、先ずは自分の今現在の『立ち位置』を見定める事が大切です。

友達が欲しい人、いじめを受けている人、自分の人生が思い通りにならなくて悩んでいる人、先ずは自分が置かれている『立ち位置』を、良く考えてみてください。自分の欠点を考えるのは、決して楽しい作業ではございません。ですが、受け入れるか受け入れないかを決めるのは、結局他人様が決める事なのです。「俺はこんなに善良な人間なのに、なぜ誰も受け入れてくれないんだろう?」と訴えてみても、他人様には関係の無いことなのです。

いじめる側の人、人気が有ると思っている人、自分が優秀であると思っている人、本当にそうですか。「自分は強い人間だから弱い者をいじめて何が悪いんだ。」なんて思っているのでしょうが、他人様は本当にそう思っているのでしょうか。人をいじめて笑っている姿をムービーで撮ってもらって、一度自分で観てみるといいです。ありえない程、腐った下品な面で笑っている筈です。弱い者をいじめて下品な面で笑っている人間の事など、誰も本気で想ってはくれないものです。それが他人様の目線という物であります。

人気が有って友達が沢山いると思っている人も、周りも同じように貴方を友達だと思ってくれているのでしょうか。自分の『立ち位置』を忘れ調子に乗っていると、思わぬしっぺ返しを喰うものです。友達が沢山いると勘違いしていて、いざ困った時に誰にも助けてもらえない、これほど不細工な話はございません。ちゃんと友達の目線で物事を見て、自分に何が足りないかを考えておかなければいけません。
本当の友達と言うのはそういうものであります。


『分相応』という言葉があります。
自分の『立ち位置』も考えず、身の丈も知らずに行動していると、いつか誰にも相手にしてもらえない人間になってしまいます。
人間社会に暮らす以上、他人様有っての自分でございます。


私自身、自分の『立ち位置』を常に見失わない人間になりたいと思っております。

自殺

このところ2週間、『いじめ』を苦にして自殺した少年少女のニュースで、もちきりでございます。このブログの始めの方でもお話しましたが、報道の仕方を間違えれば同様の事件が多発してしまう・・・また同じ事が起きています。現場の教員は当然悪い訳ですが、マスコミの責任も非常に大きく、ほぼ共犯と言っても過言ではない気がいたします。

私は正直、見た事も会った事も無い人が、何人亡くなっても痛くも痒くも無いのです。ですが最近「死にたいです」という内容のメールをよく頂きます。そうなってくると話は別でございます。できれば自殺なんかやめて、近い将来『喜び』や『幸せ』を感じて頂きたい、と心底思っております。

テレビをつければそんなニュースばかりの世の中にはウンザリしてしまいます。子供達や若い方達が、夢や希望に小躍りするような明るい世の中で暮らして行きたいと願っております。未来ある若者が自らの命を絶つ様は、いくら関係の無い私でも哀しい気持になってしまいます。


マスコミは阿呆の集まりでございます。「教員が悪い、教育委員会が悪い、システムが悪い、だから詳細を調べてすぐに改善しろ!」と朝から晩まで同じ事を吠えまくる。確かに大切なのは判るけれども、教育システムを改善する頃には、今現在いじめに耐えている子供達はもう大人になっているでしょう。彼らは、今すぐに助けを必要としているのです。

大至急やらなければいけない事は、今現在いじめられている子供にメッセージを発信する事だと思うのです。親にも言えず、腐れ教員にも言えず、相談する友達もおらず、一人きりで悩んでいる筈です。なぜ人に言えないのでしょう・・・。それは、いじめられる事が恥ずかしい事だとか、自分が人よりも劣っているダメ人間なのだと、思い込んでしまっているからなのです。

「お父さん、お母さん、こんなダメな子でごめんなさい」多くの遺書に書かれている言葉です。
「ああ、こんな子を産んで失敗したよ」と落胆する親の姿を想像して、期待に添えなかった事を謝っているのです。死んでいく自分の事よりも、親に気を使う優しい子供達です。
現場で見た訳ではないので判りませんが、いじめられている子供は本当にダメな子なのでしょうか。もしダメな子だとしたら、どこからどこまでがダメな子として扱われるのでしょう。

いじめられる事は決して恥ずかしい事では無い、アンタ達は決してダメな人間ではないのだという事を、教えてあげなければならないと思うのです。そのメッセージを発信するのがマスコミの最大の仕事でございます。自分がいじめられている事、学校という場所が合わないという事を、すぐに家族に言える環境を作ってやるのが急務であります。いじめの事実さえ判れば、後はそんな腐れた学校なんぞに行かせなければ良いのです。

そもそも、学校をあまりにも重要視し過ぎなのではないでしょうか。自ら命を絶つというのは、もの凄い事であります。辛くて苦しくて、希望の欠片すら見当たらなく、その苦しみから逃れる為に死を選ぶのです。そこまで堪えて頑張ってでも通わなければならない程、大切な場所ではないと思うのです。誰にでも合う場所、合わない場所がございます。学校に馴染めない事は、別に犯罪では無いのですから、堂々と胸を張って「もう行ってやらねぇ」と言えば良いのです。

とりあえず、今すぐに助けを必要としている子供達を、いじめの現場から離してやる事が何よりも先決なのです。後の事は、心有る大人達がゆっくり考えていけば良いのであります。教育委員会や学校に頼らず、心有る大人たちだけで・・・。

校長が謝ったとか、次の日意見を撤回したとか、そんな事はどうでもいいのであります。先生様というのは殆どがそんな人間だという事は、皆昔から判っている事なのです。何よりも急ぐべきは、子供達へのメッセージでございます。どうして、知恵遅れのマスコミ連中はそんな事にも気付かないのでしょう。本当に情けない話であります・・・。


死んでしまいたいと思うほどの我慢をしてまで、通わなきゃならない場所なんてこの世に在りません。学校でも仕事でも同じ事です。価値の無い若者なんておりません、若者には無限の可能性が有るのです。
耐え難い場所になんて行くのをやめて、外の世界を歩き回ってみましょう。美しい物や人に溢れている筈なのです。どうかその事に気付いて頂きたいのであります。


視点を変えて見ると、結構良い世の中なのですよ。

スタイル

誰の頭の中にでも、憧れの『スタイル』というものが存在する筈であります。見てくれであったり、ファッションであったり、生き方であったり、と十人十色の憧れのスタイルをお持ちの事でしょう。

今のように情報に囲まれた世の中には、完璧にオリジナルなスタイルなんて無い、と思っております。映画の登場人物、タレント、歴史上の人物、身近な先輩・・・etc、必ず何かの影響を強く受けた上で、イメージしているものだと思います。特別意識はしていなくても行動や言動、服装などに自然と現れてくるものでございます。

個性が足りないだの云々だのという話が、よく話題に上る事がありますが、全く大きなお世話でございます。服装ひとつを取りましても、自分で好きな物を選び組み合わせを考えて着る訳ですから、充分立派な個性であると思います。例えお馬鹿な芸能人とそっくりな恰好をしていても、真似をする行為自体がその人の個性だと思うのです。

テレビ番組で、人様のスタイルに「あ~でもない。こ~でもない。」と難癖をつけている薄汚い双子のカマ野郎などを見ていると、ムカッ腹が立ってくるのです。「他人様にグダグダ言う前に、手前ぇらが世間様からどう思われているのか考えてみろ!」ってな感じでございます。
ドン小西についても全く同意見であります(笑)。

最近は、私も若く見られようなんて思い、普段着にHIPHOP系の服なんぞを着るようになりました。周りの者に言わせると、そこそこ似合うし若くも見える、しかしガラの悪さは改善されていないそうであります・・・。そんな恰好をしていても誰がどう見てもヤクザって、一体何が原因なのでしょう・・・(汗)

こんな私にも多少は目指す『スタイル』があります。色々な人達の良さげな部分を掻き集めたような、卑怯なスタイルでございます。服装はスーツが多いのでさて置き、言動は『寅さん』に憧れております。久々に会った人間をつかまえて「元気だったか?あいかわらず馬鹿か?」こんな発言をしても愛されてしまうキャラクターになりたいものです。私位の年齢では、まだまだ無理そうであります。恋愛に関しては映画『シザーハンズ』のように、生き方は亡き祖父のように・・・結局あれもこれもと採用しすぎて理想のスタイルから離れていくような気がいたします(笑)。

どんなスタイルで生きて行き、どんなキャラクターとして世間様に認識されるか。これは人生の上で、そこそこ重要な案件でございます。自分に合わないスタイルを押し通すと、同じ人に対して同じ発言をしても、笑って許される場面が、いきなり殴られるなんて事になってしまいます。スタイル違い、キャラ違いには、その位の差が生じてまいります。正しい事を言っているにもかかわらず、頭ごなしに叱られる奴を良く見かけるものです。可哀相とは思うのですが、そういうキャラなのでしょう。

嘘や虚勢を張る必要なく、自分に無理のかからないスタイルで暮らしていく事が肝心なようであります。


「あいつが、やったのならしょうがない・・・(笑&汗)」
・・・と諦めてもらうのが私の『スタイル』でございます(-。-)y-~~~~

朝日

私は、昼と夜が真逆の生活をしております。
一日の睡眠時間は3~4時間で、朝の8時位に眠りに就き、昼前には起きています。午前中にどうしても外せない用事ができた場合には、大概その日は一睡もいたしません。普段日中は、なるべく家でゆっくりして、夕方から面倒な用事を足しに行きます。距離が近いせいもあり、家と繁華街を何度も行ったり来たりしております。

繁華街は、朝・昼・晩とそれぞれの顔を持っております。
夜は当然ネオンに彩られ、大勢の人々が集まってまいります。この街が一番美しく、そして活気に溢れる時間帯でございます。観光客、地元の者、ガキ共、そして悪者達も、どこからこんなに集まって来るのか解らないほどの賑わいを見せるのです。一般の方々がよくご存知なのは、この華やかな時間帯だと思います。

私の愛するこの街は、眠るという事を知りません。
夜の賑わいは別としても、朝から夕方まで大勢の方々が街に出入りし続けます。ビルメンテナンス、ゴミ収集、おしぼり屋、花屋、酒屋、等がひっきりなしに走り回り、無数に存在する風俗店は規制を掻い潜りほぼ24時間営業しております。街の表看板『ラーメン横丁』なども昼前には営業を開始して、観光客相手に商いをしております。

24時間酒を呑もうと思えば、いつでも可能でございます。とんでもない時間に、とんでもない客を相手に商いをしている店が結構在るものなのです。まぁ朝まで商売をしている連中には、そういう店も無いと困る訳であります。

昨日(土)も、廃業が決まりラスト営業の店に顔を出してまいりました。ぞろぞろと仲間達が集まり、閉店を惜しみながら結局昼過ぎまで呑み明かしました。仲間の店が減っていくのは実に寂しいものですが、最後まで楽しく送ってやるのが我々の流儀でございます。店を閉めたと言っても、この先まだまだ付き合いは続くのですから・・・。

私が生まれるずっと前から続いてきた大繁華街、当然古いビルも沢山ございます。夜の華やかな時間には判り辛いですが、昼間の明るい時間に歩くとただの小汚いビルの集合体であります。市内では美化運動が推進され煙草のポイ捨て等も罰金化されておりますが、この街は無法地帯、朝方にはゴミだらけ煙草だらけでございます。観光協会は気に入らないようですが、私に言わせればこれが『繁華街』の正しい姿であります。

ガキの時分、ドキドキしながら街を徘徊していた頃からの変わらぬ姿でございます。ビルが汚かろうが、街中ゴミだらけであろうが、心から愛してきたこの街の真実の一面なのです。一般の方々がどんなにしかめっ面をしても、私はこの一面も大好きなのであります。

眩しい程のネオンが消えて、朝日が、だんだんとビル達を照らして行きます。ゆっくりと夜の化粧を剥がしていくように・・・。汚れた外壁、ゴミだらけの路上、汚い部分を白日の下に晒していくのです。
私は、この時間帯が一番好きであります。
説明はできないのですが、なぜか大好きなのであります。

以前、若い女と二人で街を歩いておりました。
朝日が昇り始め、その光景を立ち止まって眺めておりました。
「汚れてるなぁ・・・。うん、良いな。」と私が呟くと「何で汚れてんのに良いの?」と聴かれた事がございます。
「いいんだ、別に。これで良いのよ。」


私は、全部をひっくるめてこの街を愛しているのです。

競争

私自身もそうでありますが、必ず他と比較して物事を考えてしまいます。人よりも強く、人よりも自由に、人よりも良い生活がしたい、人よりも良い成績を取りたい、この人よりもの『人』が今ひとつよく判らないのであります。世間一般には『大勢の人よりも』とか『平均よりも』という意味合いが強いのではないかと思います。

人間が、比較対象でしか物事を考えられないのは仕方が無い事としても、『人よりも』という曖昧な基準は正直いかがなものかな、と思うのであります。この曖昧な基準が、不自然で歪んだ『競争』を生んでいる様な気がするのです。

『人よりも』という発想を軸にして起こる『競争』は実に歪んでいるのです。『お受験』なんかが良い例でしょう。我が子に将来【人よりも良い暮らしをさせるため】【人よりも良い職業に就かせるため】ってな理由で、最近では幼稚園から入試をさせるのであります。

我が子可愛さで『お受験』を選択する親御さんが増えているのでしょう。将来なるべく競争をせずに済むように、と考えて幼稚園から競わせるのであります。うまく表現できませんが、漠然とした違和感を感じます。

そもそも【人よりも良い暮らし】とは、どんな暮らしの事なのでしょう。何不自由無い暮らしと言うのならまだ解るのですが、ここで人様と比べるのが理解できません。なんとなくニュアンスは、私にも理解できるのです。ただ、なんとなくニュアンスが伝わる程度の曖昧な理由で、競争する事を強いられたり煽られたりする子供は、たまったもんじゃありません。

【人よりも良い職業】これも実に曖昧でございます。楽をしてザックリと儲かる仕事の事でしょうか。それとも、世の不況に関係なく安定した公務員の事でしょうか。どちらにしても、幼稚園時代から目指せと教える職業でもないでしょう。「大きくなったら、何になりたい?」と言う可愛いらしい質問に、「投資家」だの「霞ヶ関の役人」なんて答えられた日にはザワッと寒気がしてしまいます。ウルトラマンや仮面ライダーになりたい、と答えて貰った方が安心できるというものです。

子供に夢すら与えてやる事ができない親が、偉そうに何を教えてやれるのでしょう。子供を愛しているのであれば尚の事、夢に溢れた育て方をした方が良いでしょう。世間一般に大きく差をつけ、勝ち組だのセレブだのと呼ばれ、下品に金品を見せびらかす『成金』を目指す事は、断じて夢とは言いません。それはただの欲に歪んだ『野望』と言うものです。

自分の仕事に誇りを持つ事ができ、贅沢はできないが食っていける。これこそが『良い職業』でございます。その先、儲かるか儲からないか・・・そこは『競争』でございます。愛に満ち溢れた家庭を築き、なおかつ誇れる仕事で大成功する、それが『夢』でございます。

『競争』自体はとても大切な事であります。友達やライバル達と競い合い、互いを磨いていく為に、という意味で・・・。時に競い合い、時に助け合うからこそ、互いに尊敬が生まれ、真の友情が生まれるのではないでしょうか。ちょこっと小金を持って、下品な成金を目指すような競争なんぞ、阿呆らしくてやってられません。

金は確かに大切でございます。金に追われれば仲間を助ける事すらできません。ですが金を目標にした競争は虚しいものであります。そんな馬鹿げた競争を何年もやってきた私が言うのだから、間違いはございません。稼いだ金も湯水のように使ってしまいましたが、なんの満足感もありません。

金になる高級料理屋、もちろんザクザク儲かります。たいして儲かってはいない下町の小料理屋、誰もが唸る本物の美味い料理を出す店です。高い金を払っても案外美味くなかったりするものです。それよりも、万人にあの人の料理は本物だ、と言われる後者のような料理人を尊敬いたします。本物と呼ばれる為に、そして自分を磨く為の『競争』は実に美しいものであります。


『人よりも』なんて曖昧な感覚ではなく、きちんと到着点を見据えた上で己を磨く『競争』をしたい・・・と日々考えております。

ネット②

今回は私が感じた、パソコンとインターネットの『利点』『良い部分』のお話です。パソコンに関しては不純な動機のスタートでしたが、その後は独学で猛勉強いたしました。その過程でも「こんな事もできるんだぁ。」と感心の連続だったのであります。あれだけ毛嫌いしていたパソコンですが、今となっては必需品・・・(笑)。
正直、もっと早くに手を付けるべきだったと反省しております。

まず一つに『利便性』これは相当な物であります。
私共は、契約書や公手続きの書類をよく使うのですが、実に細分化されており弁護士や司法書士に毎回相談しておりました。今ではweb上で該当するケースを調べ、必要な書類をダウンロードする事ができます。不動産の登記簿を閲覧するにも、直接法務局に行かなくても良いようになりました。木っ端役人の顔を見る回数が減るというのは、私にとって喜ばしい事であります。

判例集などの本を買う必要もなくなりました。以前は一つの判例が見たいだけなのに、丸ごと一冊買わなくてはなりませんでしたが、今では検索すれば一発で見る事ができます。家にぶ厚い辞書が必要なくなったり、地図や料理のレシピ、挨拶状のテンプレートなんかも簡単に手に入ります。細かいメリットを挙げればキリがありません。

物の値段の相場を調べるのにも最適です。価格.com なんて便利ですよね。とにかく、調べ物・情報収集においては絶大な力を発揮する訳であります。検索の仕方にも上手・下手がございます。検索が上手になれば、普通のサイト程度ならハッキングも難しいことではありません。良い事ではありませんね・・・ハイ、まあ便利な訳でございます(汗)。


そして本題・・・『精神性』でございます。
最近、私の中で激変した部分でございます。特に自分でブログを始めた約1ヶ月間、驚かされる事ばかりであります。
そして、嬉しい事ばかりであります・・・

何度か読んで頂いた方はご存知だとは思いますが、私は裏社会の人間でございます。縁もゆかりも無い方々には、暴力団などと呼ばれております。実は私、この呼び方には深く傷ついております。
何を言われても仕方ない立場ではございますので、この話はまた別の機会に・・・。
・・・と、まぁこんな私共が、見ず知らずの他人様に共感頂いたり、応援して頂いたり、現実社会では有り得ない事でございます。ですがバーチャルなネット上では、そんな事が起こってしまっているのです。

一般の皆様が、私共の業界の事をご存知ないように、私も皆様の考え方に触れる機会が少ないのです。ほうぼう走り回っているとは言え、生活のメインの場は狭い繁華街でございます。会った事の無い人ならば尚の事、その考え方・ご意見に触れられるだけでも、嬉しい事この上ない訳であります。

機械のラインで繋がっているこのネット世界、ですが所詮人間が使っているのですから、そこに精神性が出てくるのは、考えてみれば至極当然の事であります。最近になってようやく気付いてまいりました。人様の文章に触れ優しい気持ちを頂いたり、私なんぞの能書きにご賛同頂いたり、例え会った事が無くても、確実に精神の繋がりを体感しております。

その偶然の繋がりが、さらに広がって行くのを感じる時、これがまた最高でございます。以前に『喜び』や『縁』についてお話しましたが、ネット上でもそれらをひしひしと感じるのです。ブログを始めてから『喜び』だらけでございます。
所詮バーチャルと言われてしまえば終りですが、私はこの感覚を大切にしたいと思っております。

ブログを始めるきっかけとなった雪原さんのブログ。
優しい文章が最高です。
『60億ブンノ私』 
"http://sekai1heiwa.blog.shinobi.jp/"

ご自身のブログに紹介して下さった、azumino_skyさん。
『安曇野の風景と暮らし.ex』 
"http://azuminosky.exblog.jp/" 

同じくご自身のHPで紹介して下さった、志季さん。
『on the wind』 
"http://www.xelvis.net/index.shtml"

最近ご自身もブログを始められた、美羅さん。
きっと素敵な方なのでしょう。
『こころ日和』(携帯用) 
"http://blogri.jp/cocorobiyori/"

いつもコメントしてくれる、恵介さん。
『時計じかけの日記』(携帯用)
"http://blog.m.livedoor.jp/keisuke1989/index.cgi?"

たくさん紹介して頂いている2Chの皆様、いつもコメントを頂いている皆様、そして何気で立ち寄って頂いている数多くの皆様、皆様と繋がりを持てた事こそが、私の最大のネットの『利点』『良い部分』でございます。
心より感謝しております。m(__)m


パソコンもネットも所詮は道具であります。
良く使えば良い物に、悪く使えば悪い物に・・・。

私は、良い使い方を覚えたような気がいたします。