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雲のように…月のように…

雲のように飄々と…月のように夜道を照らし…

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激動期

リンクを2つ追加させて頂きました。

【愛國】ハゲリーマンの【憂國】日記

姐さんのつぶやき日記

どちらも私が、毎日楽しみにチェックしているブログであります。
是非、お時間がありましたらお読み頂きたいと思っております。


『姐さんのつぶやき日記』でバブル崩壊直後のお話が記事になっておりました。あの当時を過ごされた方は或る意味で共通の記憶をお持ちと思いますが、本当に激動の時代であったと思うのです。私はバブル末期に繁華街にデビューしており、キチガイじみた好景気を多少体感しております。ほんの一部の業界だけが儲かっている近年のITバブルとは違い、世の中全体に金が溢れている、そんな時代でした。

建築業や不動産業は従業員までもが潤い、銀行員や公務員までもが浮かれておりました。当然、繁華街では毎晩巨額の金が飛び交い、連日お祭り騒ぎのようなものでした。何でもかんでも経費で落とせたので、皆様自腹で呑んでる風には見えませんでしたが、実際はどうだったのでしょう。ナイトクラブの新人ウェイターからスタートした私は、自分の仕事で一杯一杯であります。

その頃の私はと言いますと、何件かの店を好条件で転々とグレードアップしていき、一気にバブルの波に乗る事になります。上場企業の会長の目に留まり、少しの間東京に身を置く事になったのです。上場企業と言っても『ねずみ講』チックな会社だったのですが・・・。その会社は今でも東証一部に名を連ね、ネットワークビジネス界では10指に数えられております。

上京当初は30万位だった給料も翌月には100万を超え、一番良い時には300万以上の月給を貰いました。当時、池袋にショークラブ(ちょっと高級なキャバクラ)というものが登場し、毎晩そこで銭をブチ撒いておりました。貯金など考えた事も無く、ただの阿呆な成金のクソガキでした(笑)。19歳の頃の話でございます。

10代で既に腐っている私を快く思う者などいる訳もなく、数多くの陰湿な嫌がらせを受けました。会長の肝いりで入った私に、幹部社員も会長の取り巻き達も皆否定的だったのです。まぁ、当然であります。今の私も、あの頃の自分のようなガキに出会ったら、迷う事無くブッ飛ばしているでしょう(笑)。自分の能力を過信し天狗になった私は、自分を責める事も無く、何の我慢をする事も無く、ただただ不満を外に向けておりました。

「どいつもこいつも俺の足を引っ張る事ばかり考えやがって!こんなトコに居てやる必要なんか無ぇっ!」
あっさり会社を辞めて、地元に帰ってまいりました。東京滞在はたったの8ヶ月、ただのクソガキであります。あの時、改心して我慢して会社に残っていればなぁ・・・、なんて思う事も時々ございます。
なんせ大きな会社ですから・・・(笑)。
ポケベルがやっと普及し始め、携帯電話は肩から提げる馬鹿デカイ箱のような時代の話であります。

ほどなくして、また繁華街をフラつく事になりました。毎日、毎日、酒に酔っては喧嘩ばかりしておりました。当時、酔い過ぎると視界に入る人間が全て敵に見えていたようです。我ながら人様にご迷惑をおかけしました。そんな或る時、つい客引きを殴ってしまったのであります。これが実に面倒臭い事なのです。客引きには妙な連帯感があり、そこら辺には奴らの仲間がゴロゴロとおります。
そして、必ずケツ持ちが付いているのです。

気が付くと、あっと言う間に10人以上の客引き共に囲まれていました。(こんな奴らにやられんのも癪だなぁ。でもこの人数だからしゃあないか。)・・・、と思いつつも戦意を喪失する事も無く、一人でも多く倒してからやられてやろうと大暴れしておりました。
「やめろ、やめろ。コラ!やめろっ!」
低い声で客引きの頭を叩きながら輪の中に入ってくる男がいました。歳は30位、背は私と同じ170位、細身で結構格好良いオッサンでした。

「一人相手に何してんだ、お前ら。ガキだろこれ!」
低い声でゆ~っくりと話す人でした。
「うるせぇな、オッサン!止めんなや、コラ!」
本物の阿呆ですよね、私・・・。
「なにぃ~?」
・・・と言って、グッと一睨みされたのですが、正直殺されるかと思いました(汗)。十人以上の客引きには何とも思わなかったのですが、この人には今まで感じた事の無い畏怖を感じたのです。

とりあえずその場は一発で収まり、その人にお詫びを言いました。
「すんませんでしたっ。」
「おうっ!なんもだぁ。(笑)」
やっぱり街には凄い人がいるもんだなぁ、と痛感いたしました。本当に自分は無敵だと思っていたので、ただただ呆然と見送っていたのを覚えております。まぁ、所詮本物の阿呆でございます・・・。


まだまだ続きますので次回に持ち越したいと思います。

・・・つづく

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魔法の言葉

年号が平成になったばかりの頃、300人位のキャパの洋風居酒屋で働いておりました。ホール・厨房ともに従業員数も多く、当時としてはそこそこの規模の店だったと思います。私達の世代であれば大抵一度や二度は行った事がある・・・、そんな有名な店でした。

当時、歳は18でしたが既に水商売を転々としており、好条件で引き抜かれてきたのであります。店長、マネージャー(料理長)、主任、と役職がありまして、私はこの会社では主任として迎えられておりました。年中無休で午後5時から午前1時まで営業しているのですが、平日だと11時位にはピークを過ぎて一段落と言った感じでした。

その日、私はレジを打ち続けてウンザリしておりました。レジは体を動かせないのであまり好きではなかったのです。時計は11時をまわりやっと一段落ついた頃、バイトの子をレジに立たせて散歩がてら店内をグルッと一周しに行きました。

「HEY! Excuse me!」
(はぁ?何言っちゃってんだ、コノ野郎?)と思い振り向くと、テーブル席に50過ぎと思われる日本人と白人の紳士が座っておりました。いつの間にご案内したのでしょう。レジに夢中で入店に気が付きませんでした。外人なんか珍しいのに・・・(汗)。
「はい、何か?」
「ビール2つと、コレとコレ追加!」
注文は日本紳士の方がしてくれました(笑)。

注文をしてくれたお客様には、一言二言声をかけるよう心がけていたので何気なく「アメリカの方ですか?」と聞いてみたのです。日本紳士が「そうなんだよ。古い友達でわざわざ会いに来てくれたんだよ!」と嬉しそうに答えてくれました。すると米国紳士が「◎×※△・・・、#★@※○・・・?」・・・、オォウッ(°°;)。
日本紳士の通訳によると『何で君だけ制服が違うんだい?』との事でした。「はぁ、私主任なので。」

『オー!君はまだ若いんじゃないのかい?』
「ええ、18歳です。」
『こんな大きな店で、それは凄いね。』
「ありがとうございます。」
『日本のイメージが変わったよ!』
「そうですか・・・。」

日本紳士の通訳を介して、こんな会話が成立しました。日本のイメージ?何か変な印象を与えてしまったのかなぁ・・・、なんて考えておりました。会計が終わった後、軽い社交辞令で「ありがとうございました。是非、またいらして下さい!」言うと紳士たちは私と堅い握手をして上機嫌で帰っていきました。

次の日の11時頃、忙しいピークを超えたので厨房で※賄いを頂いておりました。するとバイトが慌ててやって来て「昨日の外人さんが一人で来て、主任を呼んでくれって言ってます。多分・・・。」
「え~~~!?」( ̄□ ̄;)!!
(外人に社交辞令って本当に通じないのか?一人って・・・、通訳のジェントルメンもいねぇのか?どうすんのよ?どうすんのよ、俺?)

  ※賄い(マカナい)・・・従業員用の食事の事です。

まぁ、本当に来てしまったものは仕方がありません。彼が悪いのでは無く、安易に社交辞令を言った私が悪いのです。開き直って日本語で通そうと思いました・・・(汗)。
「ああ、どうも!いらっしゃいませ!」
「◎×※△・・・、#★@※○♪」・・・、なんか喜んでます(汗)。
そして、私にここに座って一緒に呑め!と言っているようであります。多分・・・。居酒屋ですよ・・・。そんなサービスはやっていませんよ・・・。しかし、断る英語がわかりません。

もし私が一人で居酒屋に行き、バイトのお姉ちゃんに「ここに座れ!」と言ったらどうでしょう。軽く伝説になりそうです・・・。いくら文化が違うと言っても、このオッサンはそれを堂々とやっております。大したものであります。『よ~し!とことん付き合ってやろう!』と思いました。ここから、身振り手振りの会話が始まりました。

不思議な事にマンツーで話をしておりますと、相手の言わんとしている事が何となく解ってまいります。『君の勧める物を注文するよ!』だとか『日本のアレが美味かった!』なんて話をしておりました。解りづらい話でも紙に書けば、結構互いに解るもので驚きました。

段々とコミュニケーションがとれてきて、笑いが増えてきた頃に『君はきっと成功するよ!』という事を言われました。
「どうしてですか?」
『だってその若さでこんなに大きなレストランの責任者だろ!』
「日本では飲食業の地位はそんなに高くないんですよ。」
『違う職業に就いても同じだよ。君はうまくいく!』
「でも学歴も無いし・・・。」
『私だって高卒だよ(爆)』

高らかに笑うと彼は自分の名刺を出しました。ロサンジェルスの、日本で言えば地方銀行の頭取でした(驚)。普通のサラリーマンの家に生まれ、皿洗いもやったし、バーで働いた事もあると言っておりました。さすがアメリカンドリームですね。

『一つ良い言葉を教えるよ。Take it easy! 』
「どういう意味ですか?」
『何でもできるって事さ。辛い時でもTake it easy! 勝負に勝った時でもTake it easy! どんな時でもTake it easy! 魔法の言葉さ。私の一番大切な言葉だよ。』

『日本がダメならいつでも来なさい。言葉は向こうで覚えれば良いから心配はいらないよ。大丈夫、君は絶対うまくいく。Take it easy! 』
そう言うと彼は名刺に自宅の住所と電話番号を書き足してくれました。お互いに片言同士、たったこれだけの会話をするのに3時間もかかってしまいました。時間外営業です・・・。そして、また堅い握手をして帰っていきました。

名刺は一応保管しましたが、どうせ酔ったノリで置いていったのだと思っておりました。後日、最初に来た時の日本紳士が奥様と二人で店にやってきたのです。
「もしいつか、本当にアメリカに行こうと思うのなら私に連絡を下さい。手助けをするように彼から頼まれましたので(笑)。」と言って連絡先を教えてくれました。どこまでが本気でどこまでがノリだったのでしょう。未だによく解りません・・・。

頂いた名刺は今でも大切に保管しております。
良い想い出として・・・(笑)。
【SECURITY PACIFIC NATIONAL BANK】
PRESIDENT    ROBERT.D.REINHOLD


これで私が大成功していれば映画のようで格好良いのですが、現実はそう上手くはいかないようであります(笑)。


『大丈夫!大丈夫!楽勝!楽勝!きっと上手く行くさ♪』
多分そんな意味の言葉であります。

  【 Take it easy! 】

魔法の言葉だそうです。(^-^)

禁酒

私は、誰もが認める筋金入りの大酒呑みでございました。
若い頃は気取ってバーボンなんぞを嗜んでおりましたが、その後は焼酎を阿呆ほど呑んでおりました。一日に鏡月を4~5本は呑んでおりましたので、720×4~5=約3リットルの焼酎を呑んでいた事になります(汗)。十数年もそんな暮らしを続けていたのです。


どの辺からお話して良いのやら・・・。
私には23の時から9年間、一緒に暮らした女がおりました。その人は勝手気ままな私を、本当に自由に好き勝手させてくれる女性でした。毎日記憶が無くなる程呑んだくれて帰って来る私に、小言一つ言った事の無い凄い女性でした。当時の私は、女にもだらしがなく・・・、まぁこの話はまたいつかしたいと思っております。

彼女と別れる1年前位に知り合ったN美という女性がいました。私より3歳年下で、自分でスナックを営んでおりました。年齢に関係なく、とても可愛いらしい人でした。頻繁にではないのですが、日曜日に飯を食いに行ったり、たま~に店に顔を出したりといった関係でした。自分をしっかりと持っている人で、女にだらしがない私が「この人を軽い気持で口説くのは失礼だ」と真剣に思えるような人でした。

N美が原因で長年一緒にいた女と別れた訳ではありませんが、別れた後は当たり前のようにN美を好きになりました。とにかく尊敬できるところの多い、人として素晴らしい女性でした。ところが大問題・・・、N美はヤクザが死ぬほど大嫌いでした、行方不明になった父親がそっちの人だったからと聞いております。当時、私は複数の会社を持っていたのですが、その中の一つ中古車販売店の社長を名乗っておりました。彼女が私の稼業に気付いていたか、いないかは未だに訊いておりません。たぶん頭の良い人なので早々に気付いていたとは思います・・・。

もしかしたら色々な物事や道理を背中で教えてくれた兄貴分よりも、この人の方が私に影響を与えた人かもしれません。彼女は、粗暴な私を本当に心配してくれました。そしていつも優しく、人の心情や、本当の優しさや、本当の愛情というものを丁寧に丁寧に教えてくれました。繁華街で私に真上から説教できる、唯一の女性でございます(笑)。

生まれて初めて『好き』では無く、『愛』という感情が存在する事を知りました。この人の笑顔を守る為ならば、自分の事などどうでも良いと本気で思っておりました。寝ても醒めてもとは、当時のアノ状態の事を言うのでしょう。5分と間隔を空けずに彼女の顔が、頭の中を走り回るのです。携帯の待受画面は当然N美であります。仕事中でも、どんな時でも、手が空けば必ず待受画面を見ながら、彼女を想っておりました。とても30過ぎの男のとる行動ではありません(汗)。

私は『女を幸せにする』という事に自信がこれっぽっちもございません。自分の性分に自信が無いのであります。愛する彼女に対しては、世界一優しくできる自信はあるのです。彼女にはどんな事でもという気持ちには、一片の嘘もございません。ただその気持ちが彼女一人にしか向かない事を知っているのです。いくら彼女を大切にできても、他の気に入らない人間を平気で殴るような人間が、彼女を幸せにできる訳なんて無いのです。こんな人間では、例え堅気になったとしても何の意味もありません。

週に3~4日は彼女の店で呑み、彼女の休みの日曜には一緒にゴルフの練習や食事を・・・、そんな感じの生活が何ヶ月も続きました。彼女の部屋も繁華街の近くで、よく手を繋いで歩いて送ったものです。徒歩でも車でも送った後は、私が見えなくなるまでずっと手を振ってくれている人でした・・・。

彼女には自分で決めたルールがありました。
【お客さんとは恋愛をしない】厳しいルールでございます(汗)。知り合った当時は私は客では無かったのですが、そのルールを知っていた私は頑なに自分を押し殺しておりました。冗談めいた会話の中で「そろそろ付き合うか?」とか「一緒になるか?」等と軽く言う事はできても、本気で言う事はできませんでした。
彼女も彼女で「店やめたらね♪」なんて笑っておりました。

2004年の初夏、いつも通り彼女の店で和んでいると、彼女の兄から店に電話が入りました。実家の母が倒れたとの事でした。店を若い娘達に任せ、大至急彼女を病院に送り届けました。検査の結果、胃に影があり癌ではないがしばらく治療が必要となりました。殆ど女手一つで育てられた彼女は、最愛の母が心配で頭が一杯になってしまいました。その時から彼女の様子が、少しずつ変化していったのです。

明るく気丈だった彼女が、イライラしたり、感情の起伏が激しくなっていくのが判りました。吐いたり、熱を出したり、顔に湿疹が出たりと体調にまで影響が出始めたのです。心配になった私は、嫌がる彼女を説得しやっとの事で病院に連れて行きました。【自律神経失調症】と診断されました。ホステスに多い嫌な病名です。
医者は当然、酒をやめろと言いました。

それでも彼女無しに店はやっていけませんので、呑む量こそ減らしたものの毎日酒を呑み続けたのです。私が、酒を控えるよういくら頼んでも聞き入れてもらえませんでした。母親の事での心労もあり、日に日に悪化していくのが見て取れました。再度病院に行った時には【うつ病】の一歩手前と診断され、絶対に酒をやめないと回復は望めないと言われたのです。

2日に1日は店に出ないようになり、彼女の人気でもっていた店は少しずつ傾き始めました。母親の事もあり、自分が倒れる訳にはいかないと考えた彼女は、年内に店を閉める事を選んだのです。私も色々と提案したのですが、私の助けなど一切受け入れてくれませんでした。若くして独立した彼女の意地だったのでしょう・・・。

閉店のひと月位前に、たまたま店で二人きりになった日がありました。店を閉めることも決った訳ですし、彼女は私の本気の言葉を待っておりました。私も重々承知はしておりましたが、自信が無い事には変わりがありませんでした。
「俺は、お前の事が大好きです。愛しています。だけど俺はこんな人間だから、お前を幸せにする自信が無いんだよ。俺を選んでくれたら最高に嬉しいけど、違う誰かを選んでも仕方ない事だと思ってる。他の誰かを選んでも、俺はお前の幸せの為になら何でもするつもりでいるよ。」
私はそう言いました。
腹の底からの本心であります。

彼女は、泣きながら怒りました・・・。
決してヒステリックにならずに、静かに泣きながら怒りました・・・。
どうして嘘でも自分の手で幸せにしてやると言わないのか・・・
どうして他の人とでも良いなんて言うのか・・・
静かに私を責めました・・・

先の自信が無い理由を丁寧に話しました。
好きになればなる程、愛すれば愛する程、彼女の幸せを願えば願う程、私ではいけない気がするのです。私的には彼女さえいれば他に何も要らないし、それだけで最高に幸せなのは間違いありません。しかし、彼女的には余計な気苦労が必要になるし、泣くような事が必ず有ると思ってしまうのです。最愛の人を泣かせる位なら、私の幸せなんかどうでもいいと考えたのであります。

「そんなに自分に自信を持てなくて、たとえ私の為でも自分の幸せを簡単に捨ててしまうような人は好きになれないよ・・・。私の幸せを考えてくれて、自分の幸せもちゃんと求めて、二人で幸せになろうって、本当に思ってる人じゃなきゃ一緒になんかなれないよ・・・。」
彼女は泣き顔を見せないように下を向きながら、静かにそう言いました。
私はただ「ごめん。」としか言えませんでした・・・。
彼女には「大嫌い・・・」と言われてしまいました・・・。

閉店までの残りの1ヶ月間、私は今まで通りの顔をして、彼女の店に毎日足を運びました。彼女もいつも通りに迎えてくれました。そして12月下旬に最後の営業、次の日彼女と従業員と私で店の片付けと大掃除をして本当の閉店を迎えたのです。彼女は繁華街の部屋も引き払い、実家で母と同居する事になりました。

最後にこれから先どうする予定なのかを訊ねると、1ヶ月程静養した後に昼間の仕事を探すと言っておりました。精神的にも肉体的にも辛い状況だったのでしょう、店の客とも繁華街の人達とも、もう連絡を取らないようにしようと思っていると打ち明けました。当然私もその中に含まれている筈です。私はその時、一生の別れになると感じ、兄弟分の店に行き大酒を呑み、人目もはばからず大泣きいたしました。

私も彼女も、とても酒を愛した人間でした。
酒を売り物にしている街に育ち、酒を愛し、酒を自らの生業とし、酒と共に十数年暮らしてまいりました。しかし、その『酒』が結果的に最愛の人の身体を壊し、『酒』に全てを裏切られたような気がしました。
『酒』が仇に思えて、世界中の酒を全て流してやりたい気分でした。
そして私は、年が明けたら酒をやめると周囲に宣言をしたのです。

早いもので、来年の正月に禁酒もちょうど2年になります。酒をやめたお陰で、体調も良く、頭の回転も以前より良くなったような気がいたします。物事を冷静に判断し、言葉を選んで喋れるようにもなりました。良い事ずくめでございます。
『禁酒』は、N美がくれた大きな贈り物だと思っております。

現在、彼女は小さな会社の事務員として頑張っております。母上様もすっかり元気になって、最近はパートに出ていると聞きました。もう連絡は取らないと言っていたのですが、今では月に1~2度メールのやり取りをしています。
まぁ、お互いにただの近況報告なのですが・・・。


少しだけ後日談がございます・・・。
我らが繁華街には年に一回、大規模な夏祭りがございます。
ずっと街に出たがらなかった彼女から、今年は遊びに行きたいと連絡がありました。もしかしたらもう一生逢えないのでは、と思っていたので嬉しくて嬉しくて・・・。祭り会場の人ごみの中、待ち合わせ場所で彼女を発見した時の、あの嬉しさを生涯忘れる事は無いでしょう。1年8ヶ月ぶりの再会でした。以前より少し痩せていましたが、とても元気そうでした。

出店の屋台に二人で腰掛け、私はウーロン茶を注文すると、なんと彼女はビールを注文したのです。
「おいっ!酒呑めんのかよ?」
「えっ?店やめて半年後位から呑んでるよ。一日に缶ビール1本だけ、仕事終わって家に帰ってきたら必ず呑んでるよ♪」
おい、おい、おい・・・オイッ! \(--;)ォィ
「はぁ~?俺の涙ながらの禁酒は何だったのよ?」
「だって本当にやってると思わなかったもん♪」
全く困った人であります・・・(笑)。

「おいっ!俺にもビールくれ!5杯位持ってきて並べとけ!」
二人で顔を見合わせて、会話も無く大爆笑。
私もこの日だけは『禁酒』を解いてガンガン呑んでやりました。思い出話に花が咲き、彼女を泣かせてしまったあの日の話になりました。
「今だから聞くけど、あの時何て言えば100点だったんだ?」
「お前がいれば、俺は幸せになれるから、俺と一緒にいてくれ!ってのが正解。言われてたら満点あげてたよ(笑)。もう遅いからね♪」
彼女の顔を見ながら久しぶりに呑む酒は、露店のビールとは思えないほど最高の味がいたしました。


未だに禁酒は続けておりますが、盆暮れ正月と祝い事くらいは酒を呑もうと思っております。
彼女とはこの先も何の発展も無いでしょう・・・、私の自信の無さは変わっていませんから。頭の良いあの人は、ちゃんとそこら辺を判っております。

いつかきっちりと堅気になって、ちゃんと自分に自信を持てるようになったら、5年後・・・10年後・・・、もしかしたら20年後・・・、その時彼女がまだ独りだったら、教えてもらった正解の台詞を言いに行こうと思っております。誰が見てもとんでもなく素敵な人なので、独りでいる可能性は殆どありませんが・・・(汗)。


『禁酒』の思い出話であります・・・。

教え

私は小・中・高と学校に通いましたが、沢山の教員の中で今会ってみたいなぁと思うのはたったの4人でございます。この4人だけを私は『先生』と呼んでまいりました。先生達もお歳を召され、4人の内2人は他界なさっております。後の御二人もとうに定年を過ぎているとは思いますが、いかがお過ごしなのでしょう。

私が中学3年の時の担任の先生(ご健在です)に教えていただいたお話です。この先生はバイオレンスに満ちた我が中学校で、真剣に生徒と向き合ってきた優しい人であります。「生徒にビビッて物を言えないようでは大切な物事を教えられない」と一念発起して少林寺拳法に入門し、3年間で2段を取得した『熱い男』でございます。


【己れこそ、己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり】

少林寺拳法の『聖句』といわれる文章の中の一節です。
「自分自身こそ自分のよりどころである。自分以外に一体誰に頼れるものがあろうか。良く調整され訓練された自分自身こそが、本当に得がたいよりどころなのである。」という意味だそうです。

テストの結果が悪ければ、問題が悪い、教員の教え方が悪い、非行に対して注意されると、親が悪い、学校が悪い、社会が悪い・・・というように、いたずらに他を責める風潮が多く見られます。これは、己を頼る事を忘れ、他を頼ってばかりいるので、他が自身の思うようになってくれないと、すぐ不満に感じるからです。一番肝心な事は、一人一人が自分自身をじっくりと見つめ、積極的に自己を鍛え、どんな困難に対しても真正面からぶつかっていけるように、自己を変えて行く事なのです。もちろん私(先生)も、生涯己を訓練し続けていきます。


幾らか省略はしておりますが、こういう内容の文章を卒業の時に頂きました。二十歳位になって、偶然にも再度この文章を読み返す機会がございました。その時はまだ「へー、良い事言うなぁ、さすが先生だなぁ。」程度に思っておりました。

クラス会的な飲み会があり、ふと懐かしく思い最近また読んでみたのです。先生が私に伝えたかった事が、この歳になってようやく解ってまいりました。その言葉の重さ・大事さに、今頃になって感謝をしております。しかし先生も、ヤンキー中学生に随分と難しい事を教えようとしたものであります(笑)。

私が問題を起こした時、職員室で説教されると他の教員や生徒の目が嫌だろうと、いつも小さな個室を用意してくれました。まぁ放課後2時間位、延々と説教されたりする訳ですが・・・。よく殴られもしましたが、理不尽なことで叱られた事はただの一度もございません。

私の友達が、他の教員に理不尽なことでネチネチと嫌がらせを受けた事がございます。その場に居合わせた私は、途中で我慢できなくなり学校の椅子でその教員を殴打したのであります。
当然、大問題になりました。
いつものように個室に連れて行かれ、最初はものすごい剣幕で怒られました。ですが状況と理由を話すと「いきなり怒鳴って、すまなかった。」と頭を下げ、部屋を出て行ったと思ったらジュースを2本持ってすぐに戻ってまいりました。そしてニコニコしながら「もう一回最初から話せ!」と。もう一度話をし終えると「そうかそうか、気持ちはわかった。だけど椅子で殴ったのは悪いぞ、それだけは本人に謝れ。」結局、椅子で殴った事だけを謝ってその件は終わりでございます。
先生曰く、素手で殴ってたなら謝る必要は無かったそうです(笑)。

放課後の貴重な時間を割いて頂いたり、夜に家まで何度も来て頂いたり、私の代わりに下げなくても良い頭を何度も下げて頂いたり、とにかく迷惑ばかりをかけてしまいました。


今はまだ無理ですが、いつか堅気になった時には必ずお礼を言いに伺いたいと思っております。
それまで健康で長生きして頂きたいと思っております。

縁(えん)

私が暮らしている繁華街には日々数多くの方々がやってきます。
毎日何万人という単位でございます。この街に関わる事19年、この業界に身を置く事16年の月日が過ぎております。その中で男女問わず印象に残る出会いというのは、そう多くは無いものでございます。

今から7年前に出会った現在25歳の若者(♂)がおります。地方都市の老舗のクラブの一人息子で調理師学校に通うため、都会に出てきて一人暮らし。当時、私が頻繁に出入りしているビル(以前刺されそうになった例のビル)の一角でアルバイトをしておりました。細身で背は180ちょっとあり、元気がよく声もでかく、とにかくヤンチャで暴れん坊、非常に目立つ子でありました。

そのビルは朝迄営業の店が大半で、酒屋の配達時間が終わると店同士で足りなくなった物の貸し借りが頻繁に行われるのです。ブランデー1本だの、ビール5本だの、氷だの色々と貸し借りするのです、翌日現物で返せば良い訳であります。
私がビル内のどの店で呑んでいても、不思議と必ず借り物をしにこの小僧が現れるのです。ただでさえ目立つ子なので、すぐに顔を覚えてしまいました。

「おっ借り物しに来たのか、1杯だけ呑んでいけ!」当然一気飲みでございます。「おっまた何か足りなくなったのか、とりあえず呑んで行け!」また一気。違う店に移動しても「なんだよこの店にも借りに来るのかよ、まぁ呑んで行け!」そして一気(笑)。
この調子で一日に何度も顔を合わすのです。そして私と会う度に強制的に一気呑みでございます。当時18歳の小僧には、さぞキツい事だったでしょう(笑)。

そんなやり取りが日々続き、調理師免許を取得した後も23歳まで繁華街に残ることになります。その間も数件の飲み屋で真面目(?)に働いておりました。
とにもかくにも私を慕ってくれ、私も随分と可愛がりました。
堅気ではありますが私と『兄・弟』の関係になったのであります。

ある日こいつが神妙な顔をして「相談がある」とやってまいりました。実家の母に「帰ってクラブを継いで欲しい。」と言われたらしいのです。本人としては本気で私と一生つるんでいたかったらしく随分と悩んでおりました。なにせ一本気な子でしたから・・・。実家のクラブは大繁盛店で、継げば黙って左ウチワの暮らしでございます。
私はコイツが可愛くて可愛くて、この小僧と一緒ならどこまでも勝負できると思い始めていた矢先の話であります。

「何も悩む事なんかねぇだろ。一人息子なんだから継いでやれよ!」考えに考え抜いてそう答えました。色々な事が頭を駆け巡り、互いにしばらく無言であります・・・。小僧は私の方を絶対に見ず、涙ぐんでおりました。私は普段どおり何事もなかったような顔を、無理矢理作っておりました。
私が稼業から身を引く事を考え始めたのはこの時からでございます。

結局彼は家を継ぎ、今は大成功しております。
持ち前のバイタリティで親の代よりも更なる発展をしている最中であります。その後も年に数回互いに行き来をしております。
3ヶ月前、結婚と出産の予定を報告しに街にやってまいりました。
我が事のように嬉しく思いました。
やはり帰して正解だったなぁ・・・と。
遠く離れてはいても一生の兄弟分でございます。


出会いは別れの始まり・・・
『別れ』には『再会』がつきものでございます。

点は線となり、線は弧となる、弧は和(輪)となって縁(円)になる。
良い縁に恵まれたいものであります。

学校①

『学校』、皆様はどんな場所をイメージするのでしょう。
私には懐かしい場所であります。人によっては嫌な思い出しかなかったり、ただ居るだけでも苦痛を感じるだけの場所であったかもしれません。逆に楽しい思い出ばかりで、また戻りたいという方も多い事でしょう。
『学校』についてはこれからも少しずつお話していこうと思っております。

前述の通り人それぞれあまりにもイメージの違う場所ですので、私の体験を中心にお話しようと思います。

私の通った中学校は市内でも歴史が長く、そして有名な不良校でした。当時は先輩方が頻繁に校内暴力を起こし、何度もニュースで取り上げられるような学校だったのです。私が入学した時は校舎の中をバイクが走っていて驚いたものです。暴走族とヤンキーの全盛期でございます。

近隣の小学校4校からの持ち上がりで構成されておりました。H小学校が4割、S小学校3割、O小学校2.5割、K小学校0.5割・・・こんな感じの構成であります。H小とS小が大きな市営団地を有しており、先輩・後輩のつながりも多く学校の大半を占めておりました。O小は少し遠い郊外からの通学組、当時まだ中学校が足りない時代だったのであります。
私は不運にも0.5割の少数派K小学校の出身でした。

『横浜銀蠅』や『ブラックキャッツ』が流行しており、男はリーゼント派かパンチパーマ派に分かれ、長めの学ランにダボダボのボンタン(ズボン)。女は脱色パーマかポニーテール、引きずるような長いスカートかミニスカ。これが当時の不良スタイルでございます。もちろん半分以上は真面目な普通のスタイルであります。

他の学校がどうだったのかはっきりとは存じませんが、我が校では毎日『先輩vs教員』のバトルが繰り広げられておりました。男子トイレのドアは全て壊れ、シンナーの匂いと煙草の吸殻だらけ、超B級ムービーに登場するようなちょっとファンキーな学校だったのであります。

入学から約2ヵ月程でしょうか、少数派の私もやっとクラスに馴染んできた頃の事でございます。同じクラスに仲の良い友達が3人でき、放課後もいつも彼らと4人で遊んでおりました。彼らはH小とS小の出身で他にもたくさんの仲間がおりました。私達はクラスの中ではチョイ悪グループみたいな存在だったのであります。

ある日普通に登校すると、クラスの連中が誰も目を合わせないし、挨拶をしても返答が無いのです。感じが悪いなと思いつつ仲の良い3人の所に行き「こいつら何かおかしいぞ」と言うと、なんと驚いた事に
『無視』でございます。
昨日まで放課後も一緒に遊んでた『友達』がです。

正直何が起きているのか全く把握できませんでした。「お前ら変な冗談やめろよ」と言っても無視・・・「俺何かしたのか?」と聞いても無視
・・・無視、無視、無視クラス中で全シカトでございます。休み時間もとりあえず外に出て、他のクラスの奴と何事も無かったような振りをして雑談をしておりました。相談できるような友達は皆隣の中学校に通っていましたから・・・。昼飯は仲の良い者同士で席をくっつけて食べるスタイルなのですが、その日はポツンと一人で食べました。
結局その日は何も理解できずに帰る事になりました。

周囲の目があれほど辛く、時間を長く感じた日はございません。家に帰っても一人であれこれ悩んでみたのですが、何がなにやらサッパリで頭がパンクしかけておりました。今日だけなのかなぁ・・・4~5日続くのかなぁ・・・ずっとこうなのかなぁ・・・どんどん下がって行く感じがしました。

次の日も、その次の日も、全く同じでございます。最初の内は「何かしたんなら謝るし、言いたい事が有るなら言ってくれればいいのに・・・」的な事を話しかけていたのですが、とことん無視。
空気ですよ空気、誰の目にも見えてませんから私。
こんな陰湿な行為は無いなぁ・・・と思いました。

落ち込むよりも段々腹が立ってまいりました。
今考えるとよく3日間も我慢したものです。

次の日は朝早く登校し、窓側の一番後ろの席を勝手に占拠しました。机の中身をそこら辺にブン投げて、勝手に引っ越してやりました。私は椅子にそっくり返って座り机の上にドカっと足を乗せマンガを読んでおりました。
クラスの連中がパラリパラリと登校して来る訳ですが、皆集まってコソコソと会議をしておりました。席を奪われた奴もオロオロしておりましたが、こっちはとっくに『戦闘モード』でございます。文句があるならかかって来いと言う明確な意思表示なのですから。手の届く所に金属バットも用意してありましたし・・・(笑)。授業中もずっとその体勢でマンガを読んでおりました。何度か教員にも注意を受けましたが「何だコラ、お前もやっちまうぞ」と、もう視界に入るものは全て敵であります。

無視はこの後2日続きました。
その間も私はずっと『戦闘モ-ド』でございます(笑)。

一番最初に話しかけてきたのは1週間ぶりに登校してきた不良娘でした。自分が居ない間に変な空気が流れていたので驚いた様子でした。「なんか、あったの?」別になんて事の無い質問だったのですが、嬉しかったですね。その時の様子は未だにはっきりと覚えております。「何か知らんけど突然無視されてんだよ。俺は解らんからそいつらに聞いてくれ」と答えました。
その子はその後も普通に明るくたくさん話しかけてくれました。
同じ日、次に話しかけてきたのは遠くから通っているO小出身の2人でした。「ゴメンな一緒に飯食おう」って、これも嬉しかったですね、本当に。

そして一人、また一人と声をかけてくるようになりました。「おはよう」とかそんな程度ですが。一緒に弁当を食べてくれるO小の2人と話をしていて、段々と事の全容が判ってまいりました。首謀者は一番仲良くしていたつもりの3人だったのであります。「あいつはK小出身で仲間も居ないくせに生意気だ。みんな無視しろ。」という内容のメモが皆に回ったそうであります。皆、自分も巻き込まれるのが嫌でそれに従ったとの事。それなら仲良くする振りなんか必要無いじゃありませんか。くだらないなぁと思いました。『友達』だと思っていた自分も情けないなぁ・・・と。

3人組の内の1人とはしばらくして和解し、残りの2人(こいつらが犯人)は3年間『パシリ』をやらせておりました。

この出来事は良くも悪くも私の中の何かを変えました。とても大切な経験となった事は間違いありません。人のうわべではなく、腹に在る『中身』を見極めようとするようになりました。

つい最近のクラス会的な飲み会で、中学・高校と一緒だった同級生が酔って「こいつは凄い奴だ、何が凄いって派閥に属した事が一回も無いんだ」と私の事を語っておりました。言われてみれば自分の味方を増やそうとか、多数派に入って有利なポジションを築こうなどとは考えた事がございません。暴走族にも参加した事がありません。
今も組織には属していますが、派閥などとは関係なく好き勝手やっております。
「あいつは、いいんだ」的な感じで扱われていますから・・・(汗)。
かと言って一人孤独にやってきた訳でも無く、少数ながら本物の『友達』『応援してくれる方々』もおります。
なんか妙なスタイルでございます(笑)。


この一件以来3年間、クラスが変わっても窓側の一番後ろの席は私の指定席になりました。私が記憶している教室の映像は、全てその角度から見たものでございます。


『窓側の一番後ろ』 少し切ない私の誇りでございます。

煙草

ここ数日、私はイライラしっぱなしで非常に難儀しております。
気分も悪けりゃ後味も悪い事ばかり起こりまして・・・。
私は性格上、自分の行動に矛盾や合点のいかない部分を見つけてしまうと身動きが取れなくなってしまうタイプなのです。だからと言って引き篭もる訳にもいかず本当に難儀しております。

私は正直『おとな気無い』人間なので表情をコントロールする事が苦手であります。表情だけならまだしも、機嫌の悪い時は体全体から負のオーラを噴き出します。若い者に言わせると、遠くから後ろ姿を見ただけでも機嫌の悪さが判るそうです。よく言えば正直、悪く言えば只の馬鹿でございます。

今までを振り返って考えてみますと、こんな時は必ず誰かが救いの手を差し伸べてくれます。しかも「どっかで見てた?」って位の素敵なタイミングで(笑)。全く他人様の力で恥ずかしいのですが、随分と助けられております。

私の機嫌が悪い事など露知らず「飲みにいくぞー!」とか「飯どうですか?」とか「デートしよう♪」だのと無邪気な電話がかかってきます。
この無邪気さに助けられております。
ブツブツ言いながら連れ出される訳ですが、結果実に良い気分転換になっているのです。

昨夜も夜中の1時過ぎに無理矢理先輩に連れ出されてしまいました。「酒はやめたので。」と軽く断ってみたのですが「ウーロン茶飲んでていいから、黙って付き合えや!」と・・・(汗)。結局3軒も連れまわされてしまいました。今回も偶然良いタイミングで気分転換になったなぁと思っておりました。

・・・が、実は今日になって人から聞いたのですが、うちの若い者が私が落ち込んでいる事をその先輩に相談していたらしいのです。その話を聞いた時「あのガキ、クソ生意気に余計な事しやがって!」と口に出していましたが、本当はありがたいなぁと思っておりました。
先輩にも、若い者にも・・・。

すごく昔の事を思い出しました。
16歳当時、繁華街のナイトクラブ(生バンドのディスコ的な店)でホールウェイターをしておりました。もちろん年齢はごまかして(笑)。店長が仕事に厳しい人で、まだ小僧の私は心から鬼だと思っておりました。金曜土曜ともなると合計で1000人も客が入るような忙しい店でした。
その日は異常に忙しく営業時間の10時間休憩も無く飯も無し、店長に怒鳴られ、先輩に叱られ、あげくの果てに客に文句を言われ・・・(怒)。もう皆ブン殴って辞めてやろうかと何度も思いながら、何とか無事に営業終了。店長やマネージャーはとっとと帰り、私共は後片づけをしてから着替えて帰ろうとしておりました。制服をぬぎ私服に着替えると、私の服のポケットに紙切れと煙草が1箱。紙切れには「今日はよく頑張った。連絡してあるから好きなだけ呑んで来い!」という文章とスナックの地図が書かれておりました。
店長がこっそり入れておいてくれたのです。

まだ小僧だったせいもあり涙が止まりませんでした。
ガキだとは言えちゃんと見ててくれていたんだなぁ、ただ厳しく当たられていた訳じゃないんだなぁ・・・と。

煙草1個、ジュース一本、言葉一つ・・・気持ちがこもっていれば人間それだけで救われる事があるものです。

今日もこれから違う先輩方から、お誘いを受けています。
裏で皆がコソコソとやっている事にも気付いているのですが、知らないふりをして好意に甘えてこようと思っております。


まだまだ人様に助けていただいてばかりでございます。

仏教①

私は仏と来世を信じない敬虔(けいけん)な仏教徒でございます。またトンチンカンな事を、仏と来世を取ったら仏教じゃないじゃないか…。仰るとおりなのですがそれで良いのです。大昔、情報も何も無い時代に無知な農民たちに教えを広めるためには、目に見えない大きな存在を感じさせる必要があったのです。今のように地球の裏側をリアルタイムで見る事ができ、旅行で宇宙に飛び出せるような時代には神や仏が絡むと余計にややこしくなるのです。

より良く生きるためのせっかくの教えが、ただの胡散臭い『宗教』といわれて相手にされなくなってしまう訳ですから。哲学だと思えば仏教はとても素晴らしいものです。だからこそ仏も来世も必要無いと思うのです。

突き詰めるとどの宗教も似たような事を教えてはいるのでしょうが、日本人には仏教の感覚がしっくりくるような気がいたします。

私のお気に入りで『刹に生きる』という教えがあります。刹とは刹那、その瞬間という意味です。『刹に生きる』とは、その瞬間その瞬間を全力で生きろという事であります。歩く時は力一杯歩き、飯を喰う時は一生懸命喰え(たくさん食べろという意味じゃないですよ)、人を愛する時には全てを投げ出して愛せといった具合でございます。この教えをもし守れたとしたら、振り返った時には常に全力で前に前に進んできた自分を見る事ができるでしょう。瀬戸内寂聴さんの本に良く出ている教えなのですが、私なりに解釈するとこうなってしまいました。
間違っていたらゴメンなさいm(__)m。

仏教にはこういった生きる上での理想のようなものがたくさん詰まっているので好きな訳であります。

私の祖父は5年前85歳でこの世を去りました。祖父の故郷は30kmほど離れた海のある近郊の町です。葬式を執り行う際に坊主をどうしようかと思案していると、幼馴染の悪友に寺の息子がいるという話を生前よくしていた事を思い出したのであります。かといって先方も同級生な訳ですから当然同じ歳でございます。まぁダメで元々だなとは思いながらも電話帳で調べて電話をかけてみると、大奥様らしい方が電話口で「もう15年も前に隠居して今は息子が継いでいる」との事でした。まぁこれも縁だなと思い当代の息子さんにお願いするという事で電話を置きました。すると10分もしない内に電話が鳴り、なんと先代住職が「是非私に勤めさせてください」とのお申し出をいただきました。生まれて初めて坊主にありがたいと思った瞬間でありました。

「15年振りなのでうまく勤められるかわかりませんが」という挨拶で通夜が始まりました。所々で声がかすれながらもお経を読み終え、そして最後の説教へ…。「私はかれこれ50数年数えきれない程の葬儀を勤めさせていただきました。そして皆様に人が亡くなるのは悲しい事では無い、皆が泣けばこの世に未練が残り成仏できない、仏様の世界に旅立つ喜ばしい誕生日なんだとお話しをさせていただいてまいりました。ですが今日だけはお許しください。」と言い終ると声を殺して泣き出したのです。本当に仲の良い友達だったそうです。

良い葬儀をあげていただき心から感謝いたしました。私も涙が止まりませんでした…。

来世には苦しみも無く幸せなんだと説きながら、涙をながし現世の別れを惜しむ老僧。

何千年も昔、仏陀のヤローもきっと泣きながら友達を送ったのでしょう…。

景色

私の一番好きな趣味は釣りでございます。
何年か前までは釣りに行くと魚の事ばかり考えていたのですが、最近になりようやく『景色』が目に入るようになってまいりました。歳をとると景色が綺麗に見えると昔言われた事があります。まだそんな歳ではない筈ですが…(汗)。

やはり海が見える景色が好きなのですが、田舎の港に行く途中途中の山並みや小さな町並みも気になってまいりました。遠くの釣り場に行く際は無粋な携帯電話の電源は切ってしまいます。以前に誰にも言わずに遠出の釣りに出掛けた時は、警察に捕まったのではないかと大騒ぎになってしまいました(笑)。あちこちで車を停めてはデジカメで『景色』を撮影しております。

田舎の小さな港で、ぽつんと一人釣りをしている時にふと気づいたのです。その港の周りには急いでいる人間が一人も居ないなぁと…。小さな漁船が帰ってきて一生懸命に魚を陸揚げしているのに慌てている様子ではないのです。決してチンタラ働いている訳ではありません。なんか変だなぁと違和感に首をかしげていると、晴天の空から急に答えが降ってまいりました。その港では時間がゆっくりと流れていただけなのです。またおかしな事をとお思いの方もいらっしゃるでしょうが本当なんです。

説明も証明もできないのでどうにもこうにも困り果ててしまう訳でありますが、時間というものはゆっくり流れる事もできるのです。その事に気がついた時に、初めて動いている人や船や車全てをひっくるめて『景色』として私の脳に飛び込んできたのです。時間がゆっくりと流れているからこそシャッターをきるタイミングも間違いませんし、綺麗だなぁと感慨にふける時間もあるのです。都会であれば景色もめまぐるしく変わりすぎてどこでシャッターを押していいか判らないし、たとえ綺麗であったとしてもそんな事を考える暇もありません。

右手に断崖絶壁そして海、左手に青々と大きく広がる湿原、目の前の朝もやの中に野生の馬の群れ。この『景色』に遭遇して私は一人泣いたことがございます。仲の良いクラブのホステスにこの話をしたところ「どんだけ悪い事をしたら景色見て泣けるの(爆)♪」と大笑いされてしまいました。確かに病んでいるのかもしれません…。

田舎の景色を眺めていると、人間の暮らしはこうあるべきなんだろうなぁと心底思うのであります。

私も引退が近いのかもしれません。

繁華街

私の住む都市は北日本最大の『繁華街』を有しております。
(以降⇒街)
まぁ私共もそこを根城としている訳でありますが、子供の頃は街を歩くのがとても怖かったと記憶しております。小学生の時は一人で歩けば必ず有り金をすべてカツアゲされる場所だと信じ込んでおりました(笑)。中学生位から怖いもの見たさ半分、度胸試しも兼ねて数人で意味も無く街を徘徊してみたものです。

当時は今とは少し違いガキを相手にした商売等は何も無く中学生だけで入れるのは喫茶店ぐらいのもんでした。どこを歩いても*地廻りのおっさん達に「こんなとこウロウロしてないで、早く帰れよ~♪」とグルングルンの巻き舌で優しさ交じりに声をかけられたものです。
今から20数年前…思い起こすとあの頃には大人に余裕があったなぁと思います。

   (*地廻り…大手全国チェーンではない地元のヤクザ。)

街は変わってしまいました…
SEGAだのKONAMIだのとゲームセンターが何件も建ち並び、顔なじみの酒屋は姿を消し代わりにコンビニが乱立しております。その両方にガキ共がたむろし、やがてそいつらを相手に商売しようという大人も群がって…。
ガキ共相手に銭を稼ごう、巻き上げようとする大人達の『卑しい性根』『余裕の無さ』が街を変えてしまったのでしょう。ひと昔前は子供相手の商売なんて格好悪いと誰もが思っていたはずなんですが…。

偉そうな事を語ってはおりますが、街が『このような事態』に陥っているのは、恥ずかしながら私共の業界に多大な責任があるのです。
冒頭でもお話しましたが私共が子供の頃には『余裕のある大人』が優しく叱ってくれました。いかつい地廻り達が畏怖を与え「こんな所に来るにはまだ早い!」 「ウロチョロしてると酷いめに会うぞ!」という事を暗に伝えてくれていた訳です。
『ガキはとっとと家に帰れっ!自分で稼げる大人になったらパーッと遊びに来いっ!』
これが 『粋』 じゃあありませんか。先輩たちは『粋』と『洒落っ気』そして良い意味での『怖さ』を持っていたように思います。それに比べ今の私共は…。

少女売春・シャブ・ドラッグetc…
最近よく考えてしまうんです、どんなやり方で作った銭でもやっぱり『銭』は『銭』なんでしょうかねぇ…。そんな『銭』でどんな高い物を飲み食いしても美味いとは思えないんですがねぇ…

残念ながら私ごときの力では昔の『粋な繁華街』の姿を取り戻す事はできないのです。

私は明日もこの『街』のどこかにいます…。

        
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