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雲のように飄々と…月のように夜道を照らし…
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小学6年生の子供達を調査したところ、毎年確実に『体力』『知力』が低下しているそうです。
そりゃあそうだろうな、と普通に思ってしまいました。習い事や塾に行かなければならない子供も多いし、そうでない子供達にもゲームやパソコンが有りますから。恐ろしいことに今の時代、貧乏な家でもプレステⅡ程度は必ず有るのです。

マスコミの言い分はこうです、「親が無関心」「学校教育のレベルが低い」「今の子供達が無気力」etc 。どれもが絡み合っての結果なのでしょうが、まるで他人事みたいに・・・。テレビ業界がもう少し頭を使って電波を飛ばせば、この程度の問題は解決してしまうのですが、この話をすると長くなるのでやめておきます。

私は子供達には一切の責任は無いと思っております。
私共が小学生の頃、塾に行っているなんて子は普通におりませんでしたし、習い事は良いトコの子しか行きませんでした。ゲームウォッチなんて物が出てきた世代なのですが、家に閉じこもってまでやる程の物ではありませんでした。家にポツンと一人でいても退屈だから外で遊んでいただけなのです。ゲームセンターにも行きたかったのですが、怖いお兄さん方にカツアゲされてしまいますから(笑)。

今の子供達とはまるっきり状況が違います。家にいて退屈しないだけの設備があったら外に出ませんよ普通。では買い与えた親のせいなのか?これも違うと思います。ゲームは親の世代がやっても楽しいんです。その楽しさを知っていたら、子供にねだられた時に断りきれないと思います。どこの家庭にもあると思えばなおさらの事であります。

外で走り回る機会が減ったのですから当然『体力』は低下するでしょう。

では『知力』はどうなのでしょう。
先日、友人の子供(小学4年生)の教科書を見る機会がありました。ビックリいたしました、カラフルで・・・(笑)。挿絵ばかりがやたらと多く、漢字が異常に少ないのです。あんな物を人様の子供に配っておいて『知力』が低下しただなんて、ただの教育委員会の嫌がらせでございます。親の関心も子供の気力も関係ありません。たとえ教員共が真面目に教えても所詮あの教科書止まりであります。あの絵本のような教科書には悪意を感じてしまいました(怒)。

今は塾に通う子供達も多く見受けられます。じゃあ『知力』は上がるんじゃないの?いやいや、そんなに簡単なものでしょうか。
ここで無気力というものが絡んできます。子供達だって耳をふさぎ目をつぶって生きている訳ではございません。勉強をした先に何があるのか、そのビジョンが見えないのであります。

将来、研究者になって世の中を便利にしたい。
これ以上?すでに充分便利で何不自由ないじゃないですか。
医者になって人助けをしたい。
もう誰の目にも医者は人を助ける職として映ってはいませんよね。
他の職業に対しても同じです、頑張って勉強して得られるメリットという物を子供目線ながら測っているのです。いくらうわべで勉強したところで身につく訳がありません。

どうすれば子供達が気力溢れ、知力・体力ともに向上するのか。
そんなもんに明確な答えはありません。時代の大きな流れでこうなった訳ですから。銭や物に囚われて、肝心な人としての生き様というものを無視してきたペナルティであります。国の教育方針だとか、親の自覚だとかで今更止められるような小さな流れではないと思っております。
だからと言って親は諦めてはいけません、絶対に。

偉そうな事を言っていても私には嫁も子供もおりません。
ですが何人かのお子さんに名前を付けさせていただいた事がございます。たとえ人様の子であろうと、その子達にはブン殴ってでも人としての大切な物を教えたいと思っております。

勉強なんかできなくても良いから、真っすぐないい者になって欲しいなぁ・・・と。

でもそんな風に育つと余計な苦労もしてしまうかもしれませんね・・・。

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10月10日は亡き祖父の誕生日。
ブログ開設当初に登場した例の祖父であります。
本来であれば『体育の日』でしたが、連休欲しさの木っ端役人共が考え出したハッピーマンデー法により、普通の日に格下げされてしまいました。

大袈裟になるのが嫌なので、一人でこっそり墓参りに行ってまいりました。普段も月一回は墓の掃除に来て線香をあげておりますが、今日は誕生日なのでいつもより丁寧に。墓石を磨き、雑草を抜いて、小物類も洗って、花を飾り、酒を撒いて・・・、やはり誰か連れてくればよかったかなぁ・・・(汗)と思ってしまいました。

そこは郊外にある今時流行の巨大な霊園なのですが、平日(しかも連休明け)にも関わらず結構な数の人達が墓参りにいらしておりました。霊園自体もどんどん拡張しており、祖父の墓を建てた時よりも倍位の大きさになっております。それだけ日々人が亡くなっている訳であります。

毎月行っておりますと、ついついよそ様の墓まで覚えてしまうものです。水汲みに行く際なども他人様の墓がどうしても視界に入ってしまいます。日頃から花を絶やした事の無いお墓、異常なまでに酒が供えてあるお墓、雑草だらけで誰も手入れしてないお墓。その霊園では墓の横に黒御影のプレート(墓誌というらしい)が有り、そこには墓で眠っている人の名前と没年齢が彫られています。長寿を全うされた方、働き盛りに亡くなった方、青春と呼ばれる時期を迎えられなかった子供さん・・・。

覗き見をしているようで気分が悪いのですが、つい色々な事を想像してしまいます。やはり幼い子が一人で納められている様は、赤の他人と言えども切ない限りでございます。

この大きな霊園には、通常の墓石のエリア、洋風(芝生にプレート)のエリア、デザイン墓石のエリアなどと、いくつかのエリアに分かれております。
中には墓石に大きく『酒』と彫ってある物もありました。人様の墓に対して申し訳無いのですが、いくら生前好きだったとしても墓石に書かれるのは嫌でございます。『寿司』とか『肉』とか書かれているのと変わりないと思うのですが・・・。

わざわざエリアを設けてある訳ですから、当然宗教や宗派にも違いがあるのでしょう。死んでしまえば皆同じ灰なのですが、かく言う私も墓を大切にしております。宗教の垣根を越えて『墓』という物自体が、日本人にとって大事な物なのだなぁと実感いたしました。


『墓』を大切にする、日本の愛すべき習慣の一つであります。

仏教にも愛の教えがあります。
出家した坊さん達は禁欲生活なのに、ちゃんと教えがあるのですね。

渇く愛と書いて『渇愛(かつあい)』と言う言葉がございます。喉が渇くように愛を求めると言う意味であります。
交際中のカップルを例にとりますと最初は「一緒にいてくれれば良い」、やがて一緒にいる時間が長くなれば「優しくして欲しい」、優しくして貰えるようになると「あんな服装をして欲しい」、もっと気を使って欲しい、もっと稼いできて欲しい、もっと、もっと、もっと・・・。
一つの事をクリアすれば、また次の欲が沸いてくる、そんな愛情を表現した言葉であります。

交際当初には言わなかった注文が増えてくる。
大なり小なりの差こそあれ、普通の恋愛は大抵そういうものであります。

『渇愛』に対して『慈悲(じひ)の愛』、これが通称『無償の愛』と呼ばれているものでございます。ただひたすらに与え続け、代償を一切求めない、それが『慈悲の愛』であります。

自分が心に決めた人、その人の幸せの為にならどんな事でもしてやろう。たとえ自分が伴侶として選ばれなくても、変わらず生涯想い続け、己の身が果てるまで尽くし続けよう。
ここまで想える相手に巡り逢えればそれだけで人生納得がいくというものです。

仏教では仏が全ての人々に対して『慈悲の愛』を与え続けていると教えております。
そんな事ぁどうでもいい訳であります。
仏に何か与えて貰ったと感じた事はただの一度もございません。

ただただ良い言葉だなぁ・・・、自分もかく有りたいもんだなぁ・・・と思っております。


仏教には良い言葉がまだまだたくさんございます。

この世に繋がりの無い物など何ひとつございません。
どんな理屈で宇宙や地球ができたかは解りませんが、全てがうまい具合に輪になっているような気がいたします。

解りやすい例で言えば食物連鎖、微生物やプランクトンから始まり段々と大きな生き物に食われて行き、最後その亡骸はまた微生物に食われて延々と廻り続けていく訳です。

人の世で起こる様々な出来事、悲しい事、嬉しい事こういった形の無い物も連鎖しているような気がいたします。
信じる神の違いでいざこざが起き異教の徒を弾圧し、弾圧による支配がテロを生み、その芽を摘む為に戦争をする。その戦争に巻き込まれた子供達は復讐を誓いながら育ち、そして又テロを生む・・・。
金本位の社会は人の人間性など無視して脱落者を作り上げ、脱落者と呼ばれる人達は更に弱者を、自分より力の劣る者を、女を、そして子供を・・・。行き場の無い子供は、大人や親を殺し、それを選択できなかった場合は自ら死を選んでみたり・・・。例え輪になっていないとしても、連鎖、連鎖、連鎖・・・全ては繋がって行くのであります。

悲しいかな全て悪循環というものは、止めづらく廻りやすい物のようであります。

世の中には『負』があれば必ず『正』も有る筈であります。
歯車が堅く廻しづらいが努力をすれば好循環という物も有ると思うのです。大雑把な話をすれば、左の人に助けてもらったら右の人を助ける、その人は更に右の人を・・・といった具合に繰り返して行けば、地球をグルッと廻ってまた自分に・・・なんて事があるかもしれません。
募金で助けてもらった子供達が感謝を忘れずに育ち、立派な大人になって人々の為に行動を起こすかもしれません。恩をあてにする訳でも、善行を強要する訳でもありませんが、努力をすればこんな連鎖も可能ではないかと思うのであります。

夢物語と笑われてしまうかもしれませんが、夢や希望が無ければ生きていく事もできません。

弱い者は強い力を渇望し、飢えた者は豊食を熱望する。
荒んだ者は清い愛情を求め、抑圧された者は力の限り自由を掴もうとする。


欲望に汚れた世界に身を置く私は、美しい人の繋がりを夢見てしまうのでしょうか。

ここ数日、私はイライラしっぱなしで非常に難儀しております。
気分も悪けりゃ後味も悪い事ばかり起こりまして・・・。
私は性格上、自分の行動に矛盾や合点のいかない部分を見つけてしまうと身動きが取れなくなってしまうタイプなのです。だからと言って引き篭もる訳にもいかず本当に難儀しております。

私は正直『おとな気無い』人間なので表情をコントロールする事が苦手であります。表情だけならまだしも、機嫌の悪い時は体全体から負のオーラを噴き出します。若い者に言わせると、遠くから後ろ姿を見ただけでも機嫌の悪さが判るそうです。よく言えば正直、悪く言えば只の馬鹿でございます。

今までを振り返って考えてみますと、こんな時は必ず誰かが救いの手を差し伸べてくれます。しかも「どっかで見てた?」って位の素敵なタイミングで(笑)。全く他人様の力で恥ずかしいのですが、随分と助けられております。

私の機嫌が悪い事など露知らず「飲みにいくぞー!」とか「飯どうですか?」とか「デートしよう♪」だのと無邪気な電話がかかってきます。
この無邪気さに助けられております。
ブツブツ言いながら連れ出される訳ですが、結果実に良い気分転換になっているのです。

昨夜も夜中の1時過ぎに無理矢理先輩に連れ出されてしまいました。「酒はやめたので。」と軽く断ってみたのですが「ウーロン茶飲んでていいから、黙って付き合えや!」と・・・(汗)。結局3軒も連れまわされてしまいました。今回も偶然良いタイミングで気分転換になったなぁと思っておりました。

・・・が、実は今日になって人から聞いたのですが、うちの若い者が私が落ち込んでいる事をその先輩に相談していたらしいのです。その話を聞いた時「あのガキ、クソ生意気に余計な事しやがって!」と口に出していましたが、本当はありがたいなぁと思っておりました。
先輩にも、若い者にも・・・。

すごく昔の事を思い出しました。
16歳当時、繁華街のナイトクラブ(生バンドのディスコ的な店)でホールウェイターをしておりました。もちろん年齢はごまかして(笑)。店長が仕事に厳しい人で、まだ小僧の私は心から鬼だと思っておりました。金曜土曜ともなると合計で1000人も客が入るような忙しい店でした。
その日は異常に忙しく営業時間の10時間休憩も無く飯も無し、店長に怒鳴られ、先輩に叱られ、あげくの果てに客に文句を言われ・・・(怒)。もう皆ブン殴って辞めてやろうかと何度も思いながら、何とか無事に営業終了。店長やマネージャーはとっとと帰り、私共は後片づけをしてから着替えて帰ろうとしておりました。制服をぬぎ私服に着替えると、私の服のポケットに紙切れと煙草が1箱。紙切れには「今日はよく頑張った。連絡してあるから好きなだけ呑んで来い!」という文章とスナックの地図が書かれておりました。
店長がこっそり入れておいてくれたのです。

まだ小僧だったせいもあり涙が止まりませんでした。
ガキだとは言えちゃんと見ててくれていたんだなぁ、ただ厳しく当たられていた訳じゃないんだなぁ・・・と。

煙草1個、ジュース一本、言葉一つ・・・気持ちがこもっていれば人間それだけで救われる事があるものです。

今日もこれから違う先輩方から、お誘いを受けています。
裏で皆がコソコソとやっている事にも気付いているのですが、知らないふりをして好意に甘えてこようと思っております。


まだまだ人様に助けていただいてばかりでございます。

今回は少し悪い話をいたします。私共の仕事についてでございます。
私共の業界には色々な『しのぎ』(*仕事)が存在しております。合法なもの、違法なもの、人それぞれに得手・不得手がございます。

私の得意分野は債権回収、いわゆる取り立てでございます。業界では『切り取り』とか『追い込み』と呼ばれているものであります。
『切り取り』はあくまで回収の見込みがあり被害額を全額回収するのが目的、『追い込み』はもう回収自体が難しく倒産や夜逃げを前提としてのキツい取り立て、に分かれております。金額の大小によって呼び分けていると言う説もあります。

一概に債権回収と言いましても、やはり合法な場合と非合法な場合がございます。そこら辺は、また別の機会に説明したいと思います。得意分野と言うだけあって、それなりに多くの現場に立ち会ってきたつもりでおります。最近、少し債権の種類が変わってまいりました。詐欺行為による不良債権が急増しているのです。


「仕事上のつきあいで金を騙し取られた。全額でなくても良いから取り戻して欲しい。」債権回収と言うよりは詐欺事件でございます。この手の相談が激増している訳でありますが、果たしてそんなに沢山の詐欺師が居るのでしょうか。実際に蓋を開けてみると、居るわ居るわ居るなんてもんじゃありません。世の中、詐欺師だらけでございます。

オレオレ詐欺、メール詐欺、フィッシング詐欺、訪販詐欺、オークション詐欺、結婚詐欺、助成金詐欺・・・etc。まぁ、考えてみたら確かに詐欺だらけであります。

最近では、私の元に来る債権回収依頼のほとんどが詐欺による被害であります。詐欺師は実に巧妙に人を騙します。しかし騙される側にも少なからず落ち度がございます。
奴らは『楽をして儲けたい』という気持ちをするどく突いてきます。

詐欺師のパターンとしては「確実に儲かる物があるので、私と○○さんとで半分ずづ出し合って買いませんか。」とか「ノルマを達成するのに架空の売り上げを立てたいので、仮契約させてもらえませんか。ノルマ達成のボーナスが出たらその契約を解約して、○○円のお礼を支払います。」等と言って、簡単で少しだけ儲かる話を持って来ます。決して大儲けではなく、少し儲かる話というのが注意点であります。中には実際に2~3回儲けさせる場合もあります。
こういう話を持って来る輩とは、その時点でつきあいをやめるのが正解でしょう。

人の情に訴えてくるパターンも古くからございます。「車をぶつけた相手がヤクザで、家族や職場の人に内緒で処理したい。」「友達に借金を申し込まれ助けてあげたいのだが、家族に反対されてしまった。何かあったら私が責任を持って払うのでどうか貸してあげてもらえないか。」相変わらずこういうのが多いですね。彼氏や彼女に騙されるパターンも多いですが、これは防ぐのが難しいですね。信用しているからこそ交際している訳ですから・・・。

さて私の仕事ですが、まず詐欺師をおびき出し捕まえる事から始まります。彼らは微妙な空気を読む事に長けているので、おびき出すのも大変であります。ですが弱点もあるのです、大抵は優しい言葉&儲け話の2点セットでのこのこと釣られてきます。さぁ捕まえてしまえばこっちのもの、とはなかなかまいりません・・・。

捕まえた後は詐欺行為の事実を認めさせた上で、返済方法等の取り決めを煮詰めていくわけですが、詐欺師という人種は総じて往生際が悪いものであります。のらりくらりと時間稼ぎをしてその場をうまくやりすごし何とかして助かろう、そういう事に対しては人一倍の努力を惜しみません。「申し訳ありませんでした。どんな事をしてでも騙したお金は返済します。」なんて土下座をしながら言う奴に限って、すぐに行方をくらますのです。そんな人種なのであります・・・。

私もダテに年がら年中彼らを相手にしている訳ではございません。彼らがどんな言い訳や同情に訴えても、全部スルーでございます。だらだらと微妙につじつまの合わない作り話を真剣に聞いてやるほど暇ではありません。事情によって方針が変わる事はありません。こちらの要求は常に騙し取ったお金を返してくれ、それだけでなのです。

世間一般のイメージで、詐欺師は人を騙して良い暮らしをしているお思いでしょう。オレオレ詐欺やPC系の詐欺は確かに潤っているかもしれませんが、その辺をチョロチョロしている詐欺師の暮らしは悲惨ものであります。人を騙して得た金もほとんどが借金払いに消えていく、大抵の場合そんな生活をしております。

誰もが最初から詐欺師だった訳ではないのです。
ギャンブル・酒・セックス・・・etc、これらの魅力に歯止めが効かなくなり、借金をしてまで遊ぶようになる所からはじまります。収入以上に遊ぶ訳ですから、当然支払いにも詰まります。そしてサラ金・闇金と繰り返し、最初は家族それから知人・友人と借金を続けて行くのです。やがて全ての支払いが不可能になり、結果友人・知人を裏切る形になります。恐らくその時に、人としての感情のどこか大切な部分が破壊されてしまうのでしょう。あとは行く道まっしぐら・・・。
この一連の流れが、誰でも彼でも騙して金にしようとする詐欺師が誕生するシステムでございます。自制心が無くだらしのない人間と言ってしまえば、それだけなのでしょうが・・・。

とても悲しい事だと思っております。
彼らに本当に命がけで愛せる伴侶や、友人が一人でも居たのなら別の道があったような気がしてなりません。
ですが絶対に同情はしません。
私は捕まえた詐欺師の携帯電話を必ずチェックいたします。出会い系サイト・エロサイト・ギャンブル情報・・・etc、暇無しにやっている奴がほとんどであります。人を騙して金を奪わないと食っていけない癖に、全く懲りていないのです。今まででほとんど全員であります。
だから私は、詐欺師には絶対に同情も容赦もしないのです。

こんな人種を相手にしているのですから、騙し取られた金の回収も一筋縄では行きません。非常に困難を極める訳ですが、私は絶対に金を払わせます。具体的な内容は言えません。うまく表現することはできないのですが、私の意地でございます。断じて正義の為にやっている訳ではありません、いただく物はいただいております。


ここ数日、質の悪い詐欺師にかかりっきりでずっとイライラしておりました。ブログも書けませんでした。今回も書いたは良いが整理もつかず、何を伝えたいかもよく解らなくなってしまいました・・・(汗)。

とにかく私は怒っています。
詐欺師に怒っています。
ちょっと儲けてやろうと思って引っかかった奴に怒っています。
詐欺師を大量に生み出す環境に怒っています。
その処理で幾ばくの金を手にしている自分に怒っています。

怒っています・・・。


やりきれない訳であります・・・。


最近の世の中全体の構成(私の想像)
マジメな人:4割、無関心なズルい奴:3割、詐欺師2割、不良:1割。

『顔』は大切です、人間の看板であります。
見てくれの事だけを言っている訳ではございません。それも大切ではありますが、どちらかと言えば『人相』のお話です。

顔つきと言うのは不思議な物で、生活環境や歩いてきた人生で全然ちがって見える物でございます。ひどい時にはたったの数日でガラッと雰囲気を変えてしまう場合もあるのです。
ですが長年かけて作り上げた『人相』という物は隠そうと思っても、そうそう隠せる物ではありません。

顔のパーツ自体は美男・美女の筈なのに一本足りないような間抜け面に見えたり、槇原敬之みたいなすっとぼけたパーツなのにキリッとして見えたりといった具合で。これはもう生きて来たスタイルの影響以外の何ものでもないと思っております。
私は、間 寛平にそっくりなヤクザに会った事がございます。本人じゃないかと言う位に似ていたのですが、やはり顔つき&オーラは間違いなくその筋の者でした(笑)。

私はまず『顔』で人を判断いたします。こういう言い方をするとお姉ちゃん達はドン引きします・・・(汗)。「人間は中身でしょう!」とよく言われます、重々承知しております。ですが、その中身が外にも滲み出ていると思うのです。私的には間違いないと確信しております。
大体にして大嫌いな『顔』をした人間と深い話などする訳が無いじゃありませんか。「話をする事すら無ぇのに中身もクソもあったもんじゃねぇだろ!」といつも言っております。

何度も言いますが、男も女も人相は隠せません。
詐欺師は詐欺師の顔になり、泥棒は泥棒の顔になります。もちろん善い人は、当然善い顔になります。TVに出ている人達の顔をじっくりと良~く見てください。政治家の顔、芸能人の顔、スポーツ選手の顔、アナウンサーの顔・・・etc。具体的に誰がどうだとは申しませんが、注意深く見ていると色々な事に気付く筈であります。誰が誠実で、誰が嘘つきか・・・。

また人の事ばかり論(あげつら)ってしまいました。

不良もまた、不良の顔になります。

私が人混みを歩くとちゃんと道が空いてしまいますから・・・(汗)。

性善説・性悪説、人は生まれながらに善なのか悪なのかという話を良く耳にいたします。
私的には、法律等を基準にして最大多数の最大幸福が『善』であるとするならば、人の性質は『悪』で生まれてくると考えています。生き物としての本能自体が、人間社会に照らすと『悪』になるという意味でございます。ああ・・・哲学者みたいな話になってしまいました。「生きる為なら何でもするよ。」なんて言っていたら世には通用しない訳ですから。

善か悪かは別にしても、生まれ持った『性格』という物は存在すると思うのです。私は、草木も含めて全ての生き物にあてはまると考えております。どんな生き物でも同じタイプばかりが生まれてきとしたら、絶滅する時も一瞬であります。ある日突然『外敵』が現れた時に、全員が超攻撃タイプでいきなりの総突撃。勝てれば問題はないのですが、敵が強ければ全滅という事になってしまいます。やはり《逃げるタイプ》《隠れるタイプ》《友好的なタイプ》《卑怯なタイプ》《超攻撃タイプ》《少しだけ攻撃してみるタイプ》・・・etc、様々なタイプが居なければ種の存続が難しいかなぁと思うのであります。

生まれたばかりの赤ちゃんでも、誰の顔を見ても泣く子・誰に抱かれても笑ってる子などの違いが有る訳ですから、たぶん生まれた時点で『性格』のベースは決まっているのだと思うのです。

5~6年前に『エニアグラム』という物を知人から教えていただきました。人間の性格を9つのタイプに分けて研究した学問であります。題名に《9つの性格》というのが含まれている本は大抵『エニアグラム』を材料に書かれているようです。この『エニアグラム』ですが実に面白い、見事に人間の性格を分類してあるのです。ここで説明すると長くなってしまいますので勘弁してください。自分が9つの内のどれに当て嵌まるのかを調べられるサイトがありますので是非お試しあれ(もちろん丁寧に説明してくれています)!
"http://shining.main.jp/eniatest.html"

私は物の見事に8番目の『超攻撃タイプ』良く言えば親分肌らしいですが、まぁうっかり全滅してしまうタイプの人間であります(笑)。

ベースになる性格が9つだとしても十人十色、持ち味は人それぞれでございます。


私は性格が全く違っても、自分と似たような部分を持っている人間が好きであります。

『携帯電話』便利ですよね。
私共もこれが無ければ暮らせないと言う程に依存しております。ほんの十数年前までは考えられなかった事であります。今では小学生が普通に持っている時代ですから(汗)。

母を大型スーパーに連れて行ったのですが、角っこの方に子供たちを遊ばせるスペースがありました。家族連れでの買い物、父親は子供を遊ばせがてら母親が買い物を終えるのを待っているケースが多いようであります。子供たちは勝手にワーワー遊んでいるのですが、父親どもはベンチで全員『携帯電話』をいじっておりました。6~7人の父親がいて、いくらなんでも全員ケータイは無いでしょう。今時普通の光景なのでしょうがもの凄く違和感を感じてしまいました。

子供そっちのけで今やらなきゃいけない事なのかねぇと思ったのであります。子供の相手をしないまでも黙って見守るとかが普通ではないのかな・・・と。少しイライラ感を覚えながらカートを押し、買い物スペースを歩いておりました。ふと周りを見回してみると、ケータイを片手にいじりながら買い物をしている人の多いこと多いこと・・・。
あれ?いつからこんな風になったんだろう?
とても不思議な感じがいたしました。

皆さんそんなに忙しいんでしょうか?
メールなんだかゲームなんだか知りませんが、歩きながら1分1秒を争ってまでやる事ではないでしょう、大の大人が・・・。何を急いでんだか何に焦ってんだかその滑稽な姿は、新しいおもちゃをもらったばかりの子供みたいなもんです。

昔と比べてもどうにもならん事ですが、家や会社に電話をかけて留守だったとしてもそれはそれでしようがないと思えたものであります。最近ではケータイに出なかったら文句を言われる事までございます。何なのでしょう・・・。電話に出ない事がそんなに悪い事なのかなぁ・・・と。私はいつも「俺の電話なんだから出るも出ねぇも俺の勝手だろう!」と言い放っているのですが、最近は風当たりが妙に強くなってまいりました(汗)。

「明日会った時にまた話すねー♪」とか「今度会ったら詳しく話すわ!」とか、じゃあ最初から会った時に全部話せば1回で済むじゃねぇか・・・と思う訳であります。


私は、普段歩く時もなるべくゆっくり歩くようにしております。せわしない姿を人様に見せるのが嫌なのです。「あの人は何があろうと動じない人だ。」と言われたいがために始めた事なのですが(笑)。待ち合わせに遅れようが、横断歩道を渡っている最中に信号が変わろうが絶対に走りません。私が走らなかったせいで名古屋行きの飛行機の出発時間が5分遅れた事もございます。

仕事にせよ遊びにせよ本当に急がなければならない事というのは、どの程度あるのでしょう。ケータイのお陰でどのくらい仕事の能率が上がったのでしょう。バブル時代の忙しい頃でも『携帯電話』はまだそれほど普及していなかった筈です。あの頃より日本が忙しくなったとは到底思えないんですがねぇ・・・。

仕事で急いで素早く動いている姿というのは美しいものであります。せわしなくチョロチョロしていたり、焦ってあたふたしている姿は滑稽でみっともない姿であると思っております。メールが来たから大至急返信しなければならない、歩いていても暇だからゲームをやりながら歩く、ただ落ち着きが無いだけではないでしょうか。

少し自分の姿のみっともなさに気がついて欲しいものです。
もしかしたらその姿を『滑稽でみっともない姿』と思っている私の方が変わり者なのかもしれませんが・・・。

もう少し、じっくり焦らず『ゆとり』が欲しいものですね。

自分は何のために生まれてきたのか?

常日頃、この難問に向き合っている方も多いと存じております。
そうではない方々でも、凹んでブルーになった時、大切な誰かを亡くした時、心から好きな人ができた時、子供が生まれた時、大きな喜び・悲しみの節目節目に誰もが一度は考えた経験があるものと思っております。

最初から申し上げておきますが、これはあくまで私個人の見解であります。かなりの極論でございます。軽くキチガイじみておりますがご了承ください。

いきなりで申し訳ないのですが結論から言えば『生きる意味という明確な物は無い!』というのが私の持論でございます。
『生きる意味』何千年も昔から哲学者や宗教家、その他にも様々な分野のスペシャリスト達が躍起になって考えているテーマでございます。だが誰一人として万人をスカッと納得させられるような結論には至っていないのです。これだけ昔から大勢の人々が明確な答えを出せない訳ですから、多分答えなど無いのでしょう。

決して投げやりな気持ちで言っている訳ではございません。生きる事を粗末に考えている訳でもございません。ただ自分自身を含め、人間というものは何かにつけて理由を欲しがる生き物だなぁと・・・。

私が生まれてきた理由は「私が生まれたかったから」であります。これは強く断言できます。当然色々な偶然が絡んで・・・んー、全てが偶然かもしれません。父と母の「子供を作ろう」という意志と、3億の精子の中から「生まれたい」という一心で勝ち残った私の意志がナイスなタイミングで一致した結果だと思っております。3億の中から勝ち抜くというのは凄い事であります。記憶は当然ありませんが「生き残りたい、生まれたい」強烈な意志を持っていたからこそ今の私がある訳でございます。

「生まれたくて生まれた訳じゃない!」などと言う輩がおりますが、全く馬鹿げております。親の意志がどうであろうが、愛情がなかろうが、生まれてきた事自体は自分の意志が大きく働いているのです。他のライバル達を蹴落としてまで生まれたかったのです。

ではそれ程までして何故生まれたかったのでしょう?
おそらく新しい世界にチャレンジしたかったのでしょう・・・分子レベルで(汗)。地球上の草木も生き物も皆所詮『炭素(C)』でできています。例えば私が60歳まで生きるとしたら、その60年が今回縁があって集まった『炭素』達の共同作業の期間であります。今回のプロジェクトは灰になって解散です。そして土になり、気の合う者同士で草になったり、怠け者が集まって化石になったりと・・・。
キチガイじみていますがそれが自然のサイクルだと思っております。

これだけ日々たくさんの人間が生まれてくる訳ですから、炭素業界でも『人間』は人気の職業なのでしょう。


『生きる意味』今回の本題であります。
例えば、『イチロー選手』を見て「彼は野球をするために生まれてきた」なんて事を言う人がいます。
果たしてそうでしょうか?もし彼が陸上をやっていたらカール・ルイスより早かったかもしれません、サッカーをやっていたら中田英寿よりも大選手になっていたかもしれないのです。だってそんな感じのする人ですよね。『エジソン』は発明の父なんて呼ばれておりますが、もし彼がいなかったとしても2006年の今、夜は明るくライトアップされている事には変わりないと思うのです。いずれ誰かが同じ発明をしたでしょう。彼は発明をするために生まれてきた訳ではないと思うのです。

彼らが『野球』『発明』周囲の人が天職というものに巡り会ったのは偶然です、たまたまです、たまたま。彼らは野球や発明に出会わなくてもきっと歴史に名を残す事になったでしょう。

人は何かを残して初めて意味を持つのでしょうか?
子供・言葉・偉業・事業・様々な物品・・・etc。

自分の生きた跡を残さなければ意味を持たないというのは、まともに物事を考えられる人間殆どに当てはまる『囚われ』ではないのでしょうか。またもや極論ですが、何かを成さねばならないのであれば、生まれてすぐに目を開けることもなく死んでいった赤ちゃんには意味が無い事になります。食肉用に繁殖された豚や牛は、人間の餌になるという意味を持ちながら今を生きているのでしょうか。少なくともうちの可愛い猫たちは、私を喜ばせるために生きている訳ではない筈です。

人は自分を『満足』させる為に生きているのだと、私は強く信じています。『生きる意味』を求めるのも自分を満足させるための一つの糧であると思っています。人は必ず何かしらの『理由』で行動をし、そしてその『結果』を得られないと生きていけない生き物なのです。それが『満足』であれ『不満』であれ。腹が減ったという理由で飯を食べ、美味ければ『満足』、不味かったり量が少なければ『不満』。「子供がほしい」「気持ちいい」という理由でセックスをする、子供もできないし快楽も無ければ誰もセックスなどしないでしょう。腹が減らなければ食うこともせず、皆死に絶えてしまうでしょう。

せっかく激しい競争を戦い抜いて、この世に生を受けた訳であります。だとしたら自分を『満足』させる為に精一杯の時間を使って生きるのが筋でございます・・・なるべく他と共存しながら。そして『満足』するためには「これをやる為に・・・」的な『理由』を探さなければなりません。これがまた大変な事なのですが・・・(ー_ー)。

『生きる意味』などという物は無い!
言い方が悪いですね「世の中には無い」、もし在るとするならば『自分の中』にだけでございます。自分が死ぬ時に納得できればそれだけで最高の人生だと思っております。他人様に生きてきた意味を持たせてもらう筋合いもありません。

私は生まれたくて生まれたくて、この世に生まれてまいりました。

人間の目でこの世界を見てみたいと熱望してきた筈なのです(炭素の頃に)。

人間社会を人間らしく力一杯体験する事が私の『生きる意味』だと思っております。

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プロフィール
HN:
神谷 仁
性別:
男性
自己紹介:
生息地:北国の繁華街
趣 味:釣り・料理
好 物:寿司・そば
口 癖:生き様が悪りぃ
 敵 :嘘つき・警察
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